第35章 瓶詰めラット(矢巾秀)※
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世界初の人工衛星スプートニク1号が静寂の宇宙へと打ち上げられた1957年と同じ時期、アメリカのとある精神生物学者が数十匹の研究用ラットを集め、一つの実験を行った。
机の上に、透明な瓶を並べる。たくさん。何十個も。無機質な研究室の白い光源が、ガラスを通過し屈折し、ぼんやりとした虹色の影を広げるその幾つもの瓶の中に、1匹ずつラットを入れると、上から水を注いでいった。
水位が上がると、ラットは溺れる。瓶の内壁はよく滑り、逃げ出す手立てはどこにもなかった。ラットたちは小さな手足をもがき動かし、水面から僅かに顔を出して酸素を求める行為を始める、その必死な様子。
生きるためには、泳ぎ続けなければならない。
果たしてどれだけの時間を足掻いて溺れていくのか。
生物教師の水瀬(みなせ)が語るこの話を聞いたとき、矢巾秀は率直に、ねずみが可哀想すぎやしないか、と心に思った。その他の感想は何も浮かばなかった。シャーペンでノートの端に稚拙なねずみの落描きを施しながら、こんなことで心を痛める自分は、きっと生物学に向いていないんだろう、とも考えた。
教壇に立ち、まるで昨日観た映画の面白さを伝えるかのように語る水瀬は、学生時代にハンドボールをしていたそうで、上背のある男ぶりの良い見た目をしている。まだ教職に就いて3年目だという。学部卒なら25歳、院卒なら27歳。普段はくだけた性格で話しやすい。知性もあり、冗談も好き。ちょっとしたいたずらにも乗ってくる。犬に例えるならボーダーコリー。
低音ボイスがセクシーだとか、チョークを持つ手が艶っぽくて堪らないとか。これはクラスの女子たちが休み時間に漏らす評価であって、さすがにここまでくると同性の矢巾にはちょっと日本語の意味がわからなくなる。授業の余った時間の穴埋めに生物実験の話をするよりだったら、さっさと休み時間にした方が男子からも人気が出るのに、というのが正直な気持ちであった。