第26章 月が(赤葦京治)
「あの、なまえさ…」
「~~~ッ、いい加減、しつこい」
振り返ると、赤葦は少し距離を置いた場所に立っていた。視線を外して、サッカーの審判がレットカードを出すみたいに右手に何か持っている。見慣れたソフトレザーのネイビー。長方形。まさしく、わたしの定期入れだった。
いつの間にか落としていたのか。
「ごめん、ありがと」と言って受け取ろうと腕を伸ばす。しかし、定期入れはスッと上へと移動する。わたしの手の届かない高さに、だ。
「ん?」
赤葦の顔を見るが、感情が読み取れない。背伸びをするも、また届かない場所へ離される。無言の攻防をした後、相手の意図に気が付いて絶句した。
「……これを、返してほしかったら」
そう言って、赤葦は右手首を軽く振ってみせた。「俺と一緒に来てください」
「は?」
その子供染みた行動にぽかんとした後、状況を理解する。苛立ちがふつふつ沸き上がってくる。
卑怯だ。
反面、期待に似た感情も大きくなる。けれど頭の上に浮かんだ帰宅の2文字は消えていない。そうだ、定期が使えなくたって、現金で切符を買えばいい。
平然を装って、通学鞄の中を覗く。定期入れと同様、わたしは財布をしまう場所も決めてある。ふたつある内ポケットのうち、大きいほう。すなわち、右側にいつも入って………………無い。
無言のまま鞄を漁る。制服の中をまさぐる。ない。財布もない。まさか、と赤葦を見ると、彼はわたしの財布も持っていた。ババ抜きの最後の勝負といわんばかりに、定期入れと併せて扇のように持っている。なぜ持っている。魔法にかけられたような心地になった。地面から足がふわふわ浮いていくようで、目をしばたかせるが、どうやら夢ではないらしい。
「い」とわたしは意地を見せた。「いいよ別に。親に迎えにきてもらうから」
しかしスマホを探し出すより前に、嫌な予感がじわじわと足元から侵食してくる。赤葦を見る。案の定、彼のコートのポケットから顔を覗かせている黄色の物体、あれは、わたしのスマホのカバーケースではないか。
やられた。
盗られたのだ。定期入れも、財布も、外部との連絡手段も、全て赤葦の手の中だ。わたしの帰る手段はなくなった。タクシーじゃ幾らかかるかわからない。徒歩で帰れる距離でもない。すなわち、彼に従うしかなくなった。