第3章 おちたみどりはどんなおと(黒尾鉄朗)
「ちょいと、そこのオネーサン」
目の前を歩く、シフォン素材のブラウスの肩を叩いた。6月の、梅雨入り前の暑い昼間のことだった。
テンポ90のメトロノームと同じ速さで、大通りを打ち鳴らしていたハイヒールの音が止まる。呼び止められて振り返ったその女性は、突如影を落とした長身の黒尾を見てびくりと身体を跳ねさせた。
化粧映えした透明な肌に、大きめの丸い瞳。驚いている表情は、先程まで見ていた後ろ姿よりも幼く見える。
「ハンカチ、落としましたよ」
身長差のせいか、はたまた自分の人相が悪いのか。怯んだ女性に、黒尾は無理に笑顔を作って拾ったそれを差し出した。彼女は目をパチパチさせて黒尾を見上げ、淡いミントグリーンの生地にあしらわれた刺繍を見つめ、また黒尾を見上げて口を開いた。
「違いますけど」
「………えっ」
「私のじゃないです」
まるで未確認生物を見るかのような目。昨日寄ったコンビニで、きゅうり味のサイダーを見つけた夜久も同じ顔をしていた。おいしいのか?これ。そう呟いて隣のレモンティーを買っていったアイツの背中が、ぱっと頭に浮かんで消えた。
やっちまった。
と黒尾は思った。
四つ折りにされた薄手のハンカチ。確かに目の前のこの女性から落ちた。ように見えた。だけど本当に、彼女の右腕にかけられたその紺色のジャケットから落ちたところを見たのかと聞かれれば自信がなくなる。東京は人が多い。こうして立ち止まっている間にも、2人の両側を人の波がすり抜けていた。
「……じゃあ、誰のスかね。これ」
「私に聞かないでよ」
「要ります?」
「はぁ……?」
急速に面倒くさくなって、歳上と思われるその女性にハンカチを突き出した。持ち主はもうどこかへ行ってしまった。探し出すことはできないだろう。行き場を無くした誰かの物が、自分の手の中にあることがなんだか気味が悪かった。
はぁ、と気の抜けた声を出した彼女は、しばらくぽかんとした顔をしていたが、やがて「あ、わかった」と気付いたように呟いた。
「わかったわかった。そーいうことね?」
ベージュのフレアスカートを、右手で軽く叩いて笑った。「そっかごめんね!私、そういうの鈍くってさぁ」
そう言って、黒尾の手首をがしりと掴んだ。