第2章 重なる唇
健人は仕事に行く準備を始める。
「ご飯の温め方覚えた?」
「うむ!」
「今日は夜中になっちゃうと思うから、先に寝てていいからね。ちゃんと歯を磨くんだよ?お風呂もちゃんと入る事」
「おー」
泉が手を挙げる。
準備が済むと、泉をギュッと抱きしめ、「行ってきます」と呟く。頼りない細い腕で抱きしめ返してきた泉はこくりと頷き、「がんばれー」と力の抜ける応援をしてくれる。離れ難いが、健人は彼女を押して、ドアを開けた。
「健人くーん、今日はよろしくねー」
「あ、うん。よろしく」
「…キスシーン楽しみにしてる」
今をときめくアイドルグループの一員である彼女は、健人の耳元でそう囁くが、意外な事に健人は特別取り乱さなかった。もちろん彼女に魅力はあると思うし、可愛いとも思うが、今健人の中では泉の存在が大きくなっている。それは我ながら不思議な事であった。
まだ出会って三日程しか経っていないというのに、何故ここまで彼女に気を惹かれるのだろうか。
「撮影始まりまーす!」
「よろしくお願いします」
スタッフやキャストに挨拶をし、撮影に入る。
あれだけ頭の中が泉でいっぱいだと言うのに、台詞はスラスラ出てくる辺りプロだな、と分かる。
そして、問題のシーンだ。
「監督、やっぱり本当にするんですか?」
「そうだねー。した方がいい絵が撮れるから。嫌?」
「あ、いえ。頑張ります!」
健人が恋人から裏切られたところに、恋人の親友がやってくる。そして、「ずっと貴方が好きだった」と告白をされ、二人はキスをする。
そんなようなシーンだ。
NGを絶対に出したくなかった健人だが、キスシーンの後の台詞を毎回アイドルが間違えるので、結局テイクは7まで延びた。イライラが募るが我慢をする。
やっとOKを貰うと、この日の撮影は終了した。気が付けばもう二時を回っている。
「健人君、ごめんね、NGいっぱい出しちゃって」
「ううん。じゃあ、お疲れ」
健人は相手の顔もよく見ずにコートを羽織ると、すぐに撮影現場から飛び出した。
残された相手役のアイドルは眉をしかめ、
「何よ、目くらい見なさいよ」
と舌打ちをした。
「ただいま!」
「…にゅ…健人ぉ…」
「ごめん、撮影長引いて…寝てた?」
首を横に振る泉だが、相当眠そうである。