Spoofing HAL -Akito ver.0.8
第3章 Process "Akito" Terminated
梓の膝から無機質に頭を引き剥がし、彼は腕の中のハルをそっと床に下ろした。
「ハル。……お前はいいな。
ずっとお前でいられて」
動じないという自分の理想を体現し続けるハルに、そう低く呟く。
ハルの温かな背に預けていた『遥斗』という人格を強引に回収し、
アキトという名のスクリプトを終了させた。
戻ってきたのは、彼女に「狂っているから合格」と突きつけられ、
その歪んだ評価を、心地よいとさえ感じてしまった自分だ。
そのまま、まっすぐ洗面所へ向かった。
蛇口を捻り、強い水流で両手を洗う。
男の手首に触れた指先を、皮膚が赤くなるほどに擦り合わせた。
それから、
余計なことを喋りすぎた自分の唇を、指先で強く、拒絶するように拭った。
鏡の中には、「アキト」でも「弟」でもない、ましてや「狂った弟」でもない。
ただの惨めな「遥斗」が映っているだけだ。
けれど、その唇の端には、合格をもらったことへの昏い安堵が、微かに残っていた。
消す気もなかった。
「遥斗ー。珈琲、飲みたい」
あれだけのことをしておいて梓はいつもの調子。
自分の周りの出来事に関して客観視が過ぎる。
「……先に言うことないのかよ。
すぐ行くから待ってろ」
そして遥斗もまたこの調子に慣れてしまっていた。
それでも彼にとっては、
どうしようもない諦念に浸ることだけが、
削られた自尊心を致命的なエラーから隔離するサンドボックスになっている。
足元で、ハルが小さく欠伸をしたあと、
彼のスラックスの裾を噛み、リビングの方へと引っ張った。
急かすようなその無垢な重みだけが、
役を降りた彼をこの世界の正常値に繋ぎ止めていた。
この夜があるから、
もう連絡なしにはこのドアを開けない。
あんなふうに、
自分をハルに預けて逃げ出すような真似を、二度としないために。