第32章 【第二十八話】赤い紐の先
離れの一室へ戻る頃には、花街の喧騒も遠くなっていた。
案内された部屋は、廊下の奥にある客間だった。
他の部屋とは少し離れていて、障子の向こうから聞こえるのは、水路を渡る風の音だけだった。
明け方には船へ乗る。
本来なら、少しでも眠っておかなければならない。
けれど、ティファはすぐに横になる気にはなれなかった。
部屋へ入ってからも、天青楼を出る時に羽織らされた濃色の外套を脱げずにいた。
あの店の廊下で向けられた視線が、まだ肌に残っているような気がしたのだ。
甘い香。
閉じた襖の向こうで聞いた、クロスの行方。
その名が出た瞬間、わずかに強張ったアニタの指先。
思い返すたび、胸の奥へ細い緊張が残る。
ティファは小さく息を吐き、外套の留め具へ指を掛けた。
肩から布を滑らせる。
重たい外套が、椅子の背へ静かに落ちた。
その下から現れたのは、天青楼で着せられたままの衣装だった。
黒に近い深紫の生地へ、夜の花のような刺繍が散っている。
ゆるく重ねられた襟元からは白い肩が覗き、胸元から腰へかけて結ばれた銀糸と紫の帯飾りが、灯りを受けて淡く光っていた。
裾は床へ長く流れ、歩くたびに片足の輪郭が僅かに覗く仕立てになっている。
華やかで。
艶やかで。
それなのに、鏡の中にいるのが自分だとは、まだどうしても思えなかった。
ティファは鏡の前へ座り、髪に挿された黒檀の簪へ指を掛ける。
静かに抜き取ると、高く結い上げられていた銀髪の一部が、さらりと肩から背へ零れた。