第31章 【第二十七話】黒檀の簪
湖を離れたのは、夜の十時を少し回った頃だった。
灯籠流しを終えた町は、深い静けさに沈み始めている。湖岸には消えかけた灯りが幾つか残り、水面へ伸びた細い光が、夜風に頼りなく揺れていた。
母親を見送った少女は、迎えに来た親族らしい女性に手を引かれ、何度もこちらを振り返りながら帰っていった。
泣き疲れた顔には、まだ痛みが残っている。
それでも、最初に出会った時のように、何も受け入れられず固まってはいなかった。
それだけが、救いだった。
けれど、ティファの胸には別の重さが沈んでいた。
ヴェイン。
母を知っていると言い、同じセトラの血を残す者だと名乗った、白い髪の男。
――その時まで、君が“君”のままでいられるといいね。
あの言葉だけが、冷たい湖の底へ沈まず、耳の奥へ残り続けている。
「……ティファ」
すぐ隣から、ラビの声が落ちた。
顔を上げると、ラビは前を向いたまま歩いていた。鉄槌は既に元の大きさへ戻され、太腿のホルダーに下がっている。
けれど、片方だけ覗く翠の瞳に、いつもの軽さはなかった。
「少し休むか?」
「大丈夫よ」
咄嗟に答えると、ラビが僅かに眉を寄せる。
「……大丈夫って顔じゃねぇけど」
「今は、師匠を探さないと」
ラビはしばらく何も言わなかった。
やがて、小さく息を吐く。
「……そうだな」
それ以上は聞いてこなかった。
ただ、歩幅だけを少し緩める。