第29章 【幕間】月影の楽園 後日談 ―帰る場所
神田に誘われ、共に蕎麦を食べた日の夜。
私は自室のソファへ浅く腰掛け、膝の上に開いた本へ視線を落としていた。
ベッド脇のランプだけが、薄暗い部屋を柔らかく照らしている。
古い植物図鑑。
ページを捲る度、乾いた紙の匂いが微かに漂った。
けれど、文字はほとんど頭へ入ってこない。
私の指は、いつの間にか一枚の挿絵の上で止まっていた。
水面へ淡く花弁を広げる、蓮の花。
――泥の中でも咲く花
あの地下水路で流れ込んできた、知らない記憶。
白い部屋。
薬品の匂い。
血に濡れた黒髪の少年。
そして、彼を見つめていた神田の蒼い瞳。
私は静かに息を吐き、本の頁へ指先を置いた。
見てしまったことを、後悔しているわけではない。
けれど、知らなかった頃へ戻れるわけでもなかった。
神田があれほど頑なに隠してきた痛みを、私は触れるはずではない形で知ってしまった。
それでも、何も変えたくなかった。
神田は神田だ。
そう思った言葉に、嘘はない。
なのに。
彼が一人で抱えてきたものを思うと、胸の奥がまだ重かった。