第7章 【第六話】この世界に繋ぎ止めて
教団の医務室は、消毒液の冷たい匂いと、重く沈んだ静寂に包まれていた。
窓の外では、朝から細い雨が降り続いている。
灰色の光が、清潔な白いシーツの上へ淡く落ちていた。
私が連れ帰った少女――アンナは、ベッドの上で小さな身体を横たえたまま、何も映さない瞳で虚空を見つめている。
あの村で黒い霧に呑まれかけていた時より、頬には僅かに色が戻っていた。
呼吸も、穏やかに続いている。
生きている。
それだけで、本当なら胸の奥に詰まっていたものが、少しは緩むはずだった。
「……アンナ」
小さく名前を呼ぶ。
少女の瞼が、ゆっくりと動いた。
やがて、その瞳がこちらへ向く。
けれど、そこに宿っていたのは、再会の安堵でも、霧の中で見た恐怖でもなかった。
何も知らない場所で、何も知らない相手を見つめる、空っぽの戸惑いだけ。
「……あなた、だれ?」
胸の奥で、何かが静かに罅割れた。
村の広場で目を覚ました時、アンナは確かに自分の名前を答えた。
母親がいたはずだとも言った。
顔も、声も、名前も思い出せないと泣きながら、それでも“お母さん”という存在だけは、彼女の中に残っていた。
けれど今、私を見つめる瞳には、あの夜の記憶すらほとんど残っていない。