第1章 霧の屋敷の黒い旋律
キルアの才能が家族中に知れ渡ってから、イルミの様子は明らかに変わった。
毎日のように、朝から深夜までフォルテピアノに向かい、休むことなく鍵盤を叩き続けていた。
使用人たちも「イルミの様の練習が激しすぎる」と囁き合うほどだった。
その夜も、二階の奥の部屋からは、妖しく甘い音が廊下にまで静かに流れ出していた。
ニナは銀のトレイに紅茶と軽い菓子を載せ、キキョウに言われた通り様子を見に上がってきた。
白いエプロンドレスに袖を通し、長い栗色の髪を後ろでまとめ、静かに廊下を進む。
ドアの前まで来ると、音がさらに深く、濃密になっていた。
甘く絡みつくアルペジオが、同じモチーフを何度も重ねながら、ゆっくりと高みへと昇っていく。
低音が胸の奥を重く震わせ、高音が冷たく煌めく。
微かな不協和音が毒のように忍びこみ
メロディが鋭く身体の深いところにねじ込まれる。
まるで黒い絹のように滑らかに旋律が繰り返されるたび、音は徐々に引き上げられ、逃げ場のない切なさが積み重なっていく。
同じ旋律が、何度も、何度も繰り返される。
その旋律が、さらに高みへ届こうとした瞬間——。
音が止まった。
最も妖しく甘い盛り上がりの間際で、指が鍵盤から離れ、音が伸びたまま粘つく余韻を残して闇に溶けていく。
ニナは無意識に唇を動かしていた。
ドア越しに、さっきの旋律の続きを——
その続きを、柔らかく口ずさんでいた。
「ラー……ラーララ……♪」
透明なソプラノ。
イルミの妖艶で闇に満ちた演奏を、優しく受け止め、包み込むような歌声。
ニナ自身も気づかないうちに、喉から自然とその旋律が漏れていた。