第6章 調律の外れにて
イルミは何も言わない。
――いや、言えなかった。
視線が、譜面とニナを行き来する。その目には納得ではなく、明らかな拒絶が滲んでいた。
あり得ない。
譜面を読めるなら、音が浮かばないはずがない。聞こえないはずはない。
常識が、崩れる。
だが――
それを否定する言葉は、もう許されていない。
シルバの一言で、この場の前提はすでに決められている。
イルミの視線が散らばる譜面から辿り、ニナを睨みつけた。
「……本当に、聞こえてないの?」
初めて、確かめるような声だった。
紙片が、イルミの足元でかすかに揺れた。
急に真っ直ぐイルミの視線を浴びたニナは節目がちに瞬きながら、甲に浮かぶ赤い跡を隠すように重ねた手を擦り合わせる。
結んだままの唇の端は赤く汚れ、縮めた肩が小刻みに震えている。
「それにしても随分と乱暴な“教育”ね」
キキョウの声が一段と高くなる。
「こんなやり方をしても、この子はあなたの思う通りには動かないわ」
「……どういうこと?」
キキョウの言葉を軽く受け流すように、イルミは視線をニナへとまた落とす。
観察するように値を測るように舐め下していく。
「それも分からずこの有様ならば――お前の方こそが怠慢だ」
シルバの声にイルミの動きが止まる。
僅かに、空気が張り詰める。
イルミは不満気に顔を上げた。
が、何も言わない。
その沈黙をシルバは逃さなかった。
「仕置きが必要なのはお前のようだな、イルミ」
その一言で、完全に線が引かれる。
「……わかったよ」
ふっと、イルミの肩から力が抜けた。
軽く手を上げてみせ、それから吐き出すように言う。
「俺が悪かった、父さん。ニナは使えないってことね」
部屋の中にはもう、先ほどまでの張り詰めた熱は残っていない。
ただ、この屋敷で誰がすべてを握っているのかが、静かに示されていた。
だらりと糸が切れたように力が入らず、ニナは重たい視線を床へ落とす。
足元の譜面。滲んだインク。乱れた線。
助けられたはずなのに。
胸の奥で、何かが軋んだ。
何かが――イルミとの、本来あるべく境界線を曖昧にさせていた何かが、はっきりと壊れてしまった。この虚しさのような感情がなんなのか。
考えても無駄だ、とニナは目を閉じた。