第3章 薄氷の恋【沖田総司】
涙が溢れ落ちた。
それが、ひどく可笑しかった。
「……ねえ……」
誰に向けた声かも分からないまま、掠れた声がこぼれた。
「冗談だって……言ってよ……」
返事はない。
あるのは、濡れた布と、冷たい空気と、そして——
菫ちゃんが、もう動かないという事実だけ。
僕はゆっくりと、菫ちゃんに手を伸ばした。
触れた瞬間、指先がびくりと震える。
冷たい。
あまりにも、冷たい。
確かにそこにあった温もりが、跡形もなく失われている。
「……冷たいよ……」
思わず、そう呟いていた。
菫ちゃんは寒がりだった。
冬の朝はいつも僕より先に火鉢の前に座って、「総司さん、無理しちゃだめですよ」なんて言っていたのに。
その人が、こんなにも冷たくなっている。
胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
怒りでも、絶望でもない。
ただ、ぽっかりと空いた穴。
剣を失った時よりも、病を悟った時よりも。
菫ちゃんは、何も言わない。
ただ静かに、目を閉じたままだ。
僕は膝をついたまま、動けずにいた。
立ち上がる理由が、どこにもなかった。
生きろと背中を押してくれる人は、もうここにはいない。
「……菫ちゃん……」
もう一度、名前を呼ぶ。
それは祈りでも、願いでもなく、ただの未練だった。
川の水が、きらりと光る。
その光が彼女の頬を照らして、一瞬だけ生きているみたいに見えた。
——でも、違う。
分かっている。
分かっているのに、認められない。
僕は、拳を握りしめる。
「……僕は……」
言葉が続かなかった。
もし、あの時、茶を飲みたいなんて言わなかったら。
もし、僕が買い物に着いて行っていたら。
もし、僕が剣を握れていたら——。
考えても、意味はない。
過去は戻らず、彼女は返らない。
残ったのは、守れなかった事実と生き残った僕だけ。
川の流れが、静かに続いている。
まるで、何も失われなかったみたいに。
その無情さに、僕は初めて声を殺して泣いた。
泣き声を立てることすら、彼女の眠りを邪魔する気がして。
ただ、肩を震わせて、息が切れるまで。
——それでも、朝は来る。
彼女のいない明日が、必ず来てしまう。
それが何よりも残酷だった。