第1章 火の粉【斎藤一】
椿の亡骸の傍らで、俺はしばらく動けなかった。
やがて奉行所の者たちが到着し、淡々と調べを始める。
その声が、遠くの出来事のように思えた。
血の跡、割れた炉、崩れた棚。
すべてが現実を物語っていた。
胸の奥で、何かが鈍く沈んでいく。
焦げた鉄の匂いの中に、微かに椿の香が混じっている。
髪に触れる風が、まるで彼女の手のように優しかった。
椿に好いていると、伝えられなかった。
あれほど毎日顔を合わせていたのに。
湯飲みを並べ、炉の火を見ながら他愛のない話をしたのに。
あの穏やかな昼下がりに、何度も言おうとして、言えなかった。
彼女の笑顔を壊したくなくて、ただ「また明日」と笑って去った。
それきりだった。
その笑顔が、こんなに脆いものだとは思いもしなかった。
伝えられなかった言葉が、胸の奥で鉄のように冷えていく。
炉の傍に膝をつくと、指先に冷たい灰がまとわりつく。
昨日、彼女が磨いていた刀が、炉の脇に転がっていた。
血が乾いてこびりつき、鈍い光を放っている。
刀を手にした瞬間、あの笑顔が脳裏に浮かんだ。
「ふふ、出来ることなら、ずっと一緒にいれたらいいのになあって」
あの声が、まるで今も耳元で囁いているようだった。
胸の奥が熱くなり、息が詰まる。
この刀は、彼女が命を懸けて守ったもの。
父の形見でもあり、自分の生きた証でもあった刀。
その刃に映るのは、いまや彼女の命そのものだ。
「……守れなかった」
鍛冶場の梁の隙間から差し込む昼の光が、椿の頬をやわらかく照らす。
まるで、彼女が眠っているかのようだった。
――もう少しだけ、早く会いに来ていれば。
そんな悔恨が、胸を締めつける。
「椿。お前の想いは、俺が継ぐ」
涙は出なかった。
ただ、胸の奥で何かが静かに燃えていた。
戸口を開けると、昼の光が溢れた。
春の風が頬を撫で、どこからか鶯の声が響く。
世界は何も変わらず、優しく、残酷なほどに美しかった。
振り返る。
鍛冶場の中、椿がいつも座っていた場所に光が落ちていた。
まるで彼女がそこにまだいるようで、「また来てくれますか」と笑っている気がした。
小さく息を吐く。
「……あぁ、必ず」
そう呟いて、静かに戸を閉めた。
その音だけが、昼の光に溶けて消えていった。