第3章 第一章幕 天女編
蓮は宛てもなく歩いていた。夜の帳が静かに降りた世界を、音もなく漂うように彷徨っている。風はなく、空は深い闇に包まれ、星の光さえも霞んでいた。彼女にとって、歩く理由も目的もない。ただ気の向くままに足を進める……それが蓮の日常だった。しかし、ふと気がつくと、周囲の景色が変わっている。つい先ほどまで見えていたはずの街並みは跡形もなく消え、代わりに鬱蒼とした森が広がっていた。湿った土の匂いが鼻腔をくすぐり、木々の間を抜けるかすかな風が葉を揺らしている。遠くでは小さな虫の羽音が震え、月明かりさえ届かない森の奥へと誘われるような錯覚を覚えた。蓮は特に驚きもせず、淡々と歩を進める。こんな出来事は、彼女にとって珍しくもなんともなかった。ある場所を歩いていたはずなのに、気づけばまったく別の世界へと飛ばされる……それは、蓮自身が生まれながらにして負った宿命のようなもの。彼女という存在そのものが、世界の摂理の枠組みを揺るがす『何か』を孕んでいるのだ。だが、この森はどこか違った。蓮は静かに足を止める。肌を撫でる空気の感触が、先ほどまでいた世界とは明らかに異なる。それは懐かしいようでいて、同時に妙な違和感を抱かせるほど、肌に馴染んでくる。まるで、誰かがここで彼女を待ち受けているかのような……不穏な気配が背筋を這った。そのとき、不意に足音が聞こえた。規則正しく、しかし研ぎ澄まされた動き。蓮がゆっくりと顔を上げると、闇の中から忍び装束を纏った男が音もなく現れた。包帯を巻いたその姿は、まるで影そのもののように静かに佇んでいる。
「蓮ちゃんは、どこから来たのかな?」
男は妙に落ち着いた声で問いかける。包帯に覆われた顔からは表情を読み取れないが、その声には確かな興味が滲んでいた。けれど、その瞳はまるで何もかもを見透かすかのように鋭い。