第6章 即ちそれ、“強豪”なる者たち
●藤堂 天● 〜東京体育館〜
それはずーっと昔から。
いくら練習試合や公式戦を重ねても、その考えだけは変わらなかった。
「私は何もしてやれない」と。
“発展途上の自分”を成長させることで、精一杯だったから。
だから私は、その代わりに何でも栄養にしたさ。
まずは自分自身が成長するために。
真っ先に強くなるために。
どんな物にでも「何かある」と糧を探して。
常に貪欲に、敗戦の経験すら栄養にして。
そう…“敗戦”。
私の中にある、幾多の“敗戦の記憶”。
もちろん、負けたらすっげぇー悔しかった。
悔しいのは当たり前。
でも、それで終わりにしたら、そんな後悔の気持ちさえも意味のないものにしてしまう。
だから私は、自分で変えてみせた。
後悔の気持ちを、“再挑戦(リベンジ)のトリガー”に。
敗戦の記憶を、“勝利への技術(テクニック)”に。
私が抱いた感情や、この肌で感じた実体験を。
過去に置いてけぼりにしないように。
そんな、“何もしなければ変わらないはずだった負の遺産”に、私は自ら価値を与えた。
そしてついには、こうして“何にも代えられない財産”へと変えてみせたんだ。
今の私たちの中にある全てが、これまでの経験。
そして敗北の賜物だ。
それを使って、全国大会(ここ)までやってきた。
全ては私の中に。
何もかも覚えている。
ここまで、どうやって歩いてきたのかを。
誰と歩いてきたのかを。
私は、全てを思い出せる。
私たちは…私はそうやって、主に敗戦から多くを学んできた。
だとしたら…
敗北は“無価値”か?
いや、そうじゃないだろ。
そうじゃないことは、私が一番よく理解しているだろ。
“敗戦から多くを学んできた奴”が、それを分かっていなくてどうするんだ。
どんな試合も、どんな失敗も。
そこに何かしらの意味を見出そうとした時、人はその過程(プロセス)を“成長”と呼ぶんだろ。
試合の結果が思わしくなかろうが、それは変わらないんだ。
敗北は無価値ではない。
勝利は強さの証明ではない。
どちらも、価値を与えられるのは自分だけ。
それを“経験値(糧)”とすることに意味がある。
だとしたら…
今日の私たちは。
この人たちの、糧になったということなのか?