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蜩(ヒグラシ)の宿─にの江大江戸人情帳─

第1章 純情恋物語編






若旦那「あ~…困った……う~ん…参った……むぅ~ん…弱った」



店の軒先まで行くと、若者がブツブツ言っているのが聞こえた

見ればかなり綺麗なナリをしている



(どこぞの大店の若旦那かしらねぇ)



あたしは傘を閉じながら、横目でその若旦那を見た



(あら、よくよく見たら、なかなかの男前じゃないさ……撫で肩だけど)



若旦那「はぁあ~…………参った」



店の中に入ろうとしたら、若旦那が盛大に溜め息をついた



にの江「ちょいとアンタ。

ひとんちの店先で景気の悪い面ぁしないどくれょ」


若旦那「………あぃ?」



男前が台無しな情けない声を出す若旦那が

コレまた情けない顔であたしの方を見た



にの江「なんて面だぃ全く、大体ねぇ、何をそんなにブツブツ言ってるんだぃ?」


若旦那「……いや、ソレが……雨で」



若旦那は相変わらず情けない顔をして空を見上げた



にの江「雨が、なんだぃ?」


若旦那「だから、雨で………家に帰れません」


にの江「…………」



余りの情けなさに、言葉が出ない

若旦那は、あたしが呆れかえっているのに全く気付かずに、また盛大に溜め息を付いた



若旦那「はぁああ~~~……こんな遅くなったら、おっかさんに叱られちまぅよ」


にの江「………傘、持って行くかぃ?」



あたしはお智ちゃんに借りた傘を差し出した



若旦那「え?良いんですか!?」


にの江「あぁ」



あたしは若旦那に傘を握らせながら言った



にの江「但し、この傘はあたしが大事なヒトから借りた傘だ。ちゃんとキッチリ返しにおいでよ」


若旦那「はい、解りました」



若旦那は借りた傘を握り直すと、あたしに向き直って真面目な顔をした



翔吾「私は、この先の薬種問屋の息子の、翔吾と申します。この傘は後日必ず此方のお宿に返しに上がります」


にの江「そりゃ、ご丁寧にどぉも。

あたしゃこの宿の女将で、にの江ってモンだょ」


若旦那「にの江さんと仰るのですか、恩に着ます。

…では、有り難く拝借して行きます」



翔吾さんはそう言うと、イソイソと帰って行った




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