第1章 ひとたび風が吹けば
じわりと七瀬の瞳から涙がこぼれる。恐怖から解放され、またひとつ、またひとつとこぼれ落ちる。やがてそれは小さな真珠へと変化し、ころりころりと廊下を転がった。
「さて、俺が不在の屋敷に手を出した野鼠がどこから入ったのかは知らないが、早々に退場していただくとしよう」
そう言うと明智近景の鍔へ指をかけ、素早く抜刀する。ゆったりとした動きで構える光秀に不審者はばっと飛びかかった。が、しかし、実力差は歴然。数々の山場を切り抜けてきた男に数年刀を握っただけの者が敵うはずもなく。流れるように柄で鳩尾を殴打された男は、膝からがくりと崩れ落ちた。
「九兵衛、俺は舞と七瀬を部屋へ連れていく。この男を拘束し牢へ」
「はっ」
どこからともなく音もなく姿を現した九兵衛は、素早く縄で縛り、気を失ったままの男を運んでいった。それを見届けると光秀はふたりへ向き直り、言葉を発した。
「いつまで泣いているつもりだ、七瀬。廊下をお前の涙の粒で溢れかえらせる気か」
「ご、ごめんなさい。そんなつもりはなくて…」
「大丈夫ですか?」
舞がそう声をかけると、七瀬が顔をあげる。1番にうつるのは心配そうに見つめる舞。先程まで味わった恐怖の余韻でかすかに震えているにもかかわらず、他者の心配をする舞の心底はさぞ優しさで満ちているのだろう。そんな舞を見た七瀬はあまりのことに涙が引っ込んでしまう。
「な、なんでそこまでして人の心配なんて…」
そう舞に問いかければ、太陽のような笑顔で舞が答えた。
「目の前に泣いてる人がいたらほっとけないんです」
「…舞さんってば、お節介焼きなんですね」
「えっ」
ぽつりと零れたその一言に、舞は光秀を振り仰いだ。しかし肝心の光秀はやれやれと言わんばかりにその顔に笑みを浮かべ、近くを通った家臣へ真珠の粒を集めるように言いつけると、さっさと廊下の奥へ消えてしまった。
「えぇ〜…あっ、私掃除手伝います!」
「姫様はよくお働きになりますね。ではこれで集めてください」
「あっ…あの…っ」
さあひと仕事。というところで、七瀬が声を上げ、それに引っ張られるかのごとく舞と家臣は顔を上げた。
「わ、私も片付けします!させてください!」
「では3人で…と、言いたいところですが、どうやってお掃除なさるおつもりで?」