第32章 歪んだ愛で抱かれる 中編
(私がいなければいいのに…)
なんとも言えない胸中で二人を見送った後、
「名無し様…」
突然、天井裏から降り立った蘭丸に驚いて名無しはびくんと肩を震わせた。
「ごめんね、びっくりさせちゃって。たまたま近くまで来たから侵入してみちゃった。名無し様元気かなって思って」
「うん、大丈夫だよ」
「それにしても、名無し様ってずいぶん優しいね」
「ん?何が?」
「側室に対してだよ。俺だったらありえない」
「そうかな?…って、今のやり取り見てたの?恥ずかしい…」
「もし俺が名無し様の夫だとして、もう一人の夫がいたら嫉妬して絶対に嫌がらせする」
なぜそんなありえない例えをするのかと名無しは一瞬思ったが、
「たとえば…、そいつの食事の膳の箸の向きをいつも必ず逆にしといたりー」
「何それ、ずいぶん小さい嫌がらせ!」
「湯浴みの時に脱衣所に置いてある替えの着物を裏返しておいたりー」
「ふふ、それは嫌かも」
「他にも思いつくよ、それからね…」
蘭丸が次々と挙げるセコい嫌がらせの数々に、クスクスと声を上げて笑ってしまった。
他愛もない話ができて、彼が帰る頃には名無しの心はかなり明るくなっていた。
川名の領地での反乱や、同盟国の寝返りなど、名無しの輿入れ以降に泰俊がずっと手を焼いていた厄介事が落ち着きをみせていた。
川奈軍は貴重な平穏の時期を利用して演習を重ね、立て直しと増強をはかる。
それと同時に、より強い武器の大量調達や、拠点を広げるために他国と軍事同盟を結んだり、領土交渉を積極的に進めていった。
それらはすべて、泰俊が絶対的な信頼をおく家臣の嶺原が進言したもの。
彼はかなりの切れ者で、武に特化した泰俊の知略面を補う有能な参謀。
けれど、名無しはあまり良い印象を抱いていなかった。
泰俊に側室を勧めたという件に対しての個人的なわだかまりもあったが、嶺原の完璧すぎるほど慇懃な態度からは、彼の本当の人となりがまったく見えず怖かった。
時々話しかけられると、目をそらさずじっと見つめてくるので居心地の悪さを感じる。
子どものように純真な夫が、彼に盲目的な信頼を寄せているのが気掛かりだった。
やがて、そんな不安は現実のものとなる。