第2章 (二) 彼女と瓶
そして、彼女が、振り返りました。
彼女は―――それはとても美しい双眸をしていました。ほんのりと、青空のようにまっさらと瞳は帯びられ、そして瞬きのたびふわり、ふわりとかすかに流動する空気が感ぜられるような白い睫毛というものに、彼はしばらく目を奪われていました。
また手を伸ばせば空くうをかいてしまいそうなそんな、儚さが、彼女にはあるのでした。
彼女は、彼の問いに答えないまま、天井を仰ぎました。彼ははっとして意識をもどして、彼女のように、仰ぎました。
すると桜の蜜だか花弁だかの香りがふと香りました。彼の視界には、めいっぱいの桜の花々が開いていました。彼はまた、そのうつくしさに目を奪われて、思わず甘いため息をつきました。
少し経ち、いつのまにか彼女が手の動きをやめてじっとこちらを見つめていることに気づいた彼は、目線を彼女に戻しました。
「なに」
彼がつぶやくと、彼女は、
「いいえ」
そう、粉雪の積もったような白き睫毛を伏せて答えるのでした。
「ああそうだ、きみ、名前は」
彼は立ったまま、彼女を見下ろして訊きました。そしておれは真人、そうつけ加えました。
「名前は、ありません」
彼女はそれを、あたかも普通のことのように口にしました。彼は少し驚いて、少し悩んで、ちょうど手元にあった文庫本をぱらぱらと、適当にめくりだしました。そして、
「これだ」
そうつぶやいて、ゆっくり笑んで、
「佐久良。きみは今日から、佐久良だよ。佐久良さん」
彼女は逆行や花影の落ちる彼の笑顔を見上げながら、それを聞きました。佐久良······とつぶやいてもみました。