第35章 幼魚と逆罰
「綾瀬皆実ではない方……相手の呪術師は?」
「どうかな。一度退くと言っていたけど、ガレキの下かも」
あの術師の腹の傷は浅くない。
だから、逃げ遅れたとしても不思議じゃない。
けれど、こんなことを口にしておきながら、「それじゃあつまらない」と思う自分がいる。
(あの術師は……絶対に手駒にしたい)
もし生きていたならば、次は必ず俺の手中に収める。
呪術師の魂の形を変えたら、いったいどうなるのか。
それを考えるだけでも、心が躍った。
想像して笑みを浮かべる俺を放って、夏油は散らばったガレキに触れる。
そして、その首を横に振った。
「いいや、しっかり逃げられているよ。真人」
夏油が俺のことを横目に見て、変わらぬ微笑を向けてくる。
なぜ断言できるのか、俺は首を傾げた。
「どうしてそう思う?」
「呪術師がガレキの下なら、綾瀬皆実も共にガレキの下にいるはず。だとすれば怪我は必須だろう。彼女の血液が流れたのなら、真人……君も正気でいられないはずだよ」
たしかに。
血が流れていなくとも、アレほどの香り。
もしも血が流れていたなら、今頃俺はその血肉を貪り食っていることだろう。
だけど、それはあくまで綾瀬皆実があの呪術師と共倒れすることを前提にした話だ。
「綾瀬皆実が1人で逃げた可能性は?」
「知らぬ他人に対して薄情である反面、懐にいれた人間には情を寄せる娘だよ、あの子は」
まるで長年連れ添った知人のことを話すかのように、夏油は綾瀬皆実という人間を語る。
天を見上げるその瞳にはいったい何が映っているのか。
(……読めない奴だよね、夏油は)
笑った俺に気がついて、今度は夏油が首を傾げる。
「なんだい?」
「夏油は、随分と綾瀬皆実に詳しいんだね」
俺の返事に、やっと夏油が瞠目してくれた。
けれどすぐに、その驚きの顔はいつもの穏やかな微笑を携えて。
「この肉体に刻まれた物語を、読み解いたまでだよ」
また真意の読めない台詞を口にした。