第34章 心の師
「五条……先生」
その名を口にして、彼女は泣いていた。
けれど起きている様子はないから、おそらく夢の中のその人に泣かされているのだろう。
無意識に彼女の頭に手が伸びて、触れる寸前で我に返った。
(……私は何をしようとしているんだ)
自分に呆れて、彼女の頭に触れようとした手を引っ込める。
彼女の顔をまじまじと見つめれば、自ずとその首元も視界に映り込んだ。
(……本来なら110番モノ)
綾瀬さんの首元……呼吸のリズムに合わせてパジャマの襟から見え隠れする鎖骨には赤い小さな痣が複数見える。
それが何なのか分からないほど、枯れた人生は送っていない。
(その指輪も……あの人からもらったもの、か)
今日一日過ごしてみて、綾瀬皆実という少女が自分を着飾るタイプの女性でないことは分かった。風呂の前後で顔が変わらない時点で、その顔が素顔なのだということも。
自分の生まれ持ったモノだけで自分を充分すぎるほどに着飾ることのできる彼女が、唯一身につけている装飾品はそれだけ異質だった。
そんなものを寝る時も肌身離さずつけているのだから、誰から受け取ったものかなど考えなくても分かる。
(本当に……あの人らしくない)
あの人から派手な女性関係を奪うほどに執着されておきながら、何を不安に思って泣いているのだろう。
興味など微塵も感じないのに、その疑問が頭を支配する。
彼女の頬に再度流れる一筋の涙を目で追って、自分の口からため息が溢れた。
(しかし……予想以上)
寝顔に伝う涙すら美しいと思える。
話には聞いていたが、想像していたよりも遥かに彼女は美しい。
彼女が『傾国の美女』だと告げられても疑いはしないだろう。
(でも……中身はまだ、子ども)
そう、彼女はまだ子どもなのだ。
その事実を自分の心で咀嚼すれば、躊躇した行動も再開できる。
子どもをあやすのは、大人の役目なのだから。
「本当に……私を疲れさせる人ですね、アナタ」
人形のように美しい、その子の頭を撫でたら。
少しだけくすぐったそうに、夢見る彼女が微笑んだ。