第32章 反魂人形③
「ちょっと、五条先生! バランスが……」
「大丈夫。僕、バランス感覚も完璧だから」
揺れたボートは転覆せずに、バランスを保っている。
けれどおかげで五条先生がボートの上、目と鼻の先に顔を近づけてきた。
「……周りに人いますからっ」
「そうだね。だからそんなに顔真っ赤なの?」
五条先生がクスクス笑う。その笑う吐息が顔にかかってくすぐったくなる。
身じろぎした私を五条先生は「かわいい」なんて言ってまた笑った。
「皆実だけだよ。ずーっと見ていたいと思える顔してんのも、ずーっと話してても飽きないくらいバカなのも。景色なんて全然見ようって気にならないし」
せっかく景色が綺麗に見える場所にボートを漕いでるのに、なんてことを言うんだろう。
「だからってこんなに間近で見なくても……」
「見たいんだから仕方ないじゃん。皆実が悪いよ」
五条先生が手を離す。そうしたらまたボートがあらぬ方向に進んでいくの。
「先生……っ」
五条先生の手が私の頰に触れる。
人目が気になるはずなのに、私はその手からやっぱり逃れようとしなくて。
(……!?)
キスされる、と思っていたのに。
目の前を水飛沫に遮られる。
「え……」
なぜか五条先生だけがびしょ濡れになっている。
突然の出来事に思考が追いつかなくて。
「先生、大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃない、全然」
サングラスをはずし、五条先生が髪をかきあげて横を向いた。
五条先生の視線の先、私たちの真横にはボートに乗った少年とその母親らしき人がいる。
「ご、ごめんなさい! うちの子が……っ!」