第5章 はばたきは、にがく
夢を見ていた。
狂児に結婚を申し込まれる夢だった。
「楓ちゃん、結婚しよう」
「俺のお嫁さんになってな」
「二人で幸せになろうや」
優しくそう笑って手を差し出す狂児は、目を覚ました時どこにも居なかった。
「うっ……あぁ……あぁ〜〜〜……」
起きぬけで号泣したのは生まれて初めてだった。
時計を見ると朝5時。
楓はベッドを抜け出して、コーヒーを淹れに行った。
「酷い夢やった……」
夢の中の自分は、生きている間に味わったことのない幸福感に満たされていた。今は独りぼっちで、薄暗いキッチンで自分の肩を抱いてコーヒーを飲んでいる。これほどまで惨めで、傷ついたと感じたことはない。
もし神様がいるのだとしたら、どうしてあんな夢を自分に見せたのだろう。意地悪が過ぎる。
楓は、芳しいコーヒーの香りを胸いっぱいに吸い込んだ。チクチクを通り越し、刃物でザクザクと刺されるように痛い胸が少しだけ、楽になった。
二年半の沈黙の期間を経て、狂児と再会してから言葉通りめくるめくようなひと時を過ごした。
それから五ヶ月。そろそろ夏も終わりに近づく頃。その間も何度も狂児と甘やかなひと時を交わした。
今日酷い夢を見た楓が思い出したのは今より少し前、再会してからしばらく経ってからの、情事のすぐあとのやり取り。