第1章 いつも、いきなり
この化粧品売り場には珍しい、濃い青のスーツ姿。上背のある男性客が視界に入った。
本社や什器関係の来客があるという連絡も特にない。恋人や家族へのプレゼントでも見に来られたのだろうか。
「いらっしゃいませ、こんにちは。ごゆっくりご覧下さい…」
声が届く範囲まで近づいたのでマニュアルの挨拶をして顔を上げ、愕然とした。
「久しぶりやな」
「狂児さ……ん……」
楓は思わず口に手を当てて固まった。
彼からの連絡を、どれほど待っていただろうか。数年前の晩夏を最後に、突然連絡が途絶えてしまった。亡くなったか、捨てられたと思っていた。
もちろん、そんなふうにいきなり終わる関係だと承知の上で受け入れていたけれど、この数年は彼のことを考えないようにして生きてきた。
「お元気そうで……!」
絞り出せた答えはそれだけだった。嬉しくて、体が震えて涙が出そうだけれど今は業務中なので、歯を食いしばり堪える。
「楓ちゃんも、元気そうで何よりや」
口元に笑みを浮かべる狂児は最後に会った時と全く変わらず洒落ていて、すらりとした体型にフィットしたスーツに、落ち着いた赤いネクタイで全体を締めている。隙がなく、全身から威圧感を放っている。ただ一点、いつもオールバックで決めていた髪型だけは変わっていて、柔らかくサイドを流して前髪を少し下ろしていた。手には黒いアタッシュケースを下げている。
その派手なルックスは百貨店の化粧品売り場という場所においても異彩を放つ。どう見ても、一般人ではない佇まいである。
彼が特殊な職業の人種だと知っているのはこの場では楓、ただ一人だった。
狂児は楓のいるカウンターに複数スタッフがいるのを視線で確認するそぶりを見せた。
それから顔を近づけてきて、そっと囁いた。
「今ちょっとだけ抜けれる?二人で話がしたいねん」
「あっ、分かりました。じゃあ…」
楓が二の句を継ぐ前に狂児は「じゃあ、また」とにこやかに手を振ってカウンターを離れた。
ふわり、と彼のいつもつけていた香水が香る。
「あっ、ありがとうございました!」
その背を目で追う。早く追いかけなくては。
カウンター内で作業をしていたスタッフに、少し抜けると告げに行くと客人との対応を見られていた。