第118章 青い花の秘密
「情に流されては策を見誤る」
厳しい言葉だったが、その眼差しの奥には家臣を無闇に危険へ晒しはしないという揺るぎない決意が宿っていた。
「伊助は忍びだ。忍びは己の役目を果たし、主人の元へ必ず戻る」
一見突き放したような冷たい言葉にも聞こえるが、その中には伊助への強い信頼が含まれているように感じ、朱里は小さく頷いた。
「……はい」
信長はそっと朱里の頬へ触れると、優しく宥めるように撫でる。
「今宵はもう休め。伊助から報せがあるまではこちらも動けぬ。それまでは無駄に気を張る必要はない」
「でも…眠れそうにありません」
「ならば傍にいろ」
短く告げられた言葉に、朱里は少しだけ肩の力を抜く。
燭台の炎がゆらりと揺れ、その淡い明かりが障子や畳に柔らかな影を落とす。信長の傍らに控えていても、不安は完全には拭い去れない。膝の上で重ねた手を無意識に強く握り締めていた。
耳を澄ませば聞こえるのは、風が庭木を揺らす音と、時折遠くで鳴く虫の声だけ。先程の外の喧騒が嘘のように、夜は静かに更けていた。けれど、この静けさが嵐の前の静けさに過ぎないのだと思うと、かえって胸の鼓動が際立つのだった。
伊助は無事だろうか。
賊に気付かれてはいないだろうか。
考えまいとしても、不安は次々と頭を擡げる。
そんな朱里とは対照的に、信長は微動だにしなかった。
腕を組み、庭へと視線を向けたまま、一分一秒の揺らぎもなく静かに時を待っている。焦りも苛立ちもその表情からは読み取れない。
己が動くべき時を知り、その時が来るまで感情に支配されぬ静かな強さだった。
やがて朱里は沈黙に堪え兼ねたように、ぽつりと呟く。
「これから、どうなるのでしょうか」
問いかけに、信長はゆっくりと朱里へ目を向けた。
「奴らが動けばこちらも動く。それだけだ」
あまりにも簡潔な答えだったが、その言葉には一点の迷いもなかった。
「時が来るまで、身を休めることも大事ぞ」
「はい」
小さく返事をすると、信長は何も言わず朱里の頭へそっと手を置いた。大きく温かな掌から伝わる体温が、不思議と心を落ち着かせる。朱里は目を閉じ、その温もりを静かに受け止めた。