第116章 嘘と駆け引き
「心配ぐらいさせてください。私は貴方の妻なのですから」
不安に揺れる心の内を隠そうとしているのか、固く唇を噛み、真っ直ぐに見つめてくる。
(こんな顔をさせたくはなかった。貴様はこんな風に堪える必要などない)
「この程度の怪我、騒ぐほどでもない。家中の士気にも関わる。ゆえに公にしなかったのだ」
「分かっています。それでも…私には知らせていただきたかった。それだけです」
「朱里…」
(笑ってくれ。曇った顔など見たくはない。貴様の涙など…)
名を呼んだきり、言葉が続かない。
胸の奥に沈めたはずの感情が、じわりと滲み出る。戦場では決して揺らぐことのない心が目の前の女一人にかき乱されていることが、どうにも歯痒かった。
「…痛みますか?」
信長の胸元へと伸ばされた朱里の手が躊躇うように揺れる。
「大事ない。そんな顔をするな。貴様がそんな顔をする方が余程…」
「信長様…?」
「……いや、もうよい。この話は終いだ」
短く言い切ると、信長はふいと視線を逸らした。これ以上話を続けることが堪え難かった。だが、その仕草はいつもの余裕のあるものではなく、どこかぎこちなくて……
「よくありません」
そんな信長の心中を知ってか知らずか、朱里はなおも引き下がらない。
「私の前でまで我慢なさらないでください」
「我慢など…」
していない、という言葉は続けられなかった。
朱里の指先が、遮るように信長の唇に触れたからだ。
「っ……」
触れられた瞬間、思考が一瞬だけ停止した。
戦場では幾度となく死線を潜り抜けてきたはずの男が、ただその細い指先一つで言葉を失うなどあまりにも滑稽で、だが同時に抗えぬ現実だった。
「……朱里」
低く名を呼ぶ声は、先程までの威圧とは違い、どこか押し殺したように切なく掠れていた。
「嘘は、もう要りません」
朱里は指を離さず、そのままそっと唇をなぞる。
「強くあろうとする信長様も、すべて背負おうとなさる信長様も存じています。でも…私の前でだけは、少しだけ弱さを見せて下さってもいいのではありませんか?」
その言葉は、責めるでもなく、ただ静かに寄り添うように落とされた。
胸の奥に沈めていたものが、音もなく軋む。
(弱さなど必要ない。隙を見せれば負けだ)
そう思っていたはずなのに……
(…この女の前では、それすらも通じぬか)
