第1章 嗚呼、君の美しい瞳よ/森鴎外
その感覚は、夜凪にはわからないが、つんと髪を少しだけ引っ張られるような感覚がして、軽く息を呑んだ。
「あぁ、失礼」
森鴎外は髪から手を解くと、「こちらに、向いてくれるかな」と夜凪に言う。
「私は、このあとまだ、雑務が残ってますから」と伝えてドアノブを回そうとするも、その手に彼の手が重なる。
「もう少しここにいてもいいんだよ?夜凪君」
「もう少しここにいたら、首領にどんな意地悪されるかわからないので、失礼します」
毅然とした態度でそう言うも、「ひどいなぁ」と心底思っていないような口ぶりで返ってくる。
「一度だけ、ね?こちらに向いてくれないかい?」
小さな子に諭すように森鴎外は言った。
もともと幼女嗜好のある彼だが、今の私はもう成人しており幼女はもちろん、少女というにも大きすぎるくらいだ。
だからなぜ、彼がそんな風に執着するのかがまったくもって意味不明。
でも、ここでまた断っても同じことの繰り返しになる。
わかりました、と夜凪は渋々振り返って森鴎外に向き直る。
「…っ」
思った以上に距離が近くて、思わず息が詰まってうつむいてしまう。
彼は、恥じらいを隠せない様子の夜凪をじっと見つめる。ただ、自分が本当にしっかり見たい場所が上手く見えない。
失礼、と言いながらドアにあてていた手を放し、手袋を嵌めた指で彼女の顎を、くいと持ち上げる。
「え、ちょっと…」
「いいから、そのまま。こちらを見て」
一瞬だけ、森鴎外の瞳に鋭い眼光が宿ったのを感じ取り、夜凪は言われた通りにする。
顔全体に熱が集まるのを感じているが、顔はおろか視線さえ彼から逃れることはできなかった。
「…綺麗な瞳だね」
エメラルドグリーンの、夜凪の瞳を見つめて、ぽつりと森鴎外は言った。
「しっかりと、間近で見てみたかったのだよ。いつも書類を届けてくれる度に思っていたのだが、今日はもうこらえきれなかった」
すまないね、と言いながらぱっと両手を放す。
先ほど、声を上げてからずっと息が止まっていたようだった。彼が、手を放してくれたのがきっかけで、夜凪は早い呼吸を繰り返す。
さきほど、彼が触れていた部分がとてつもなく熱い。
感覚なんて、ないはずなのに。
─END─