第3章 イノセント/太宰治
叫ぶように言って、夜凪は疑問を感じた。
笑ってるはずなのに、何故声が震えてるんだろう。
慢性的に吹いている風が頬に当たり、氷を当てられたような感覚がした。
太宰は不敵な笑みを浮かべ、夜凪に一歩、また一歩と近づく。
「大事な時間を邪魔してしまったね」
「来ないで」
「悪かったよ」
「来ないでって言ってるでしょう!」
今度は彼女が、眼下に広がるヨコハマへ、一歩近づいた。
「…ごめん、太宰さん。もう無理なんだ。純粋に、自分への殺意しか湧かない。身投げを許さないなら、今度はこうする…」
カチャ、と拳銃をポケットから取り出し、自身のこめかみに当てた。
「同僚の、頭が吹っ飛ぶ姿は見たくないでしょ?ほら、もうこんな時間だし、ベッドへ行きなよ」
「何だったら一緒に行こうよ、ベッド」
夜凪は返事の代わりに引き金へ指をスライドした。
「わかった。だけど、遺体でもいいよね」
太宰はにんまりと笑うと、どうぞお好きにと手を振った。
夜凪は、潤んだ瞳を細め、
あぁやっと楽になれる。予定と違ったが、こんな最期もいいじゃないかと、安心した顔で引き金を引いた。
乾いた音がし、風はピタリとやんだ。
ビルの上にいるのは、まだ立ったままの夜凪と、彼女へ歩み寄る太宰の2人だけ。
「…ぇ、え?」
何度引き金を引いても、銃弾が飛んでこない。
目を丸くして銃をこめかみへ押し付け続ける彼女を、太宰は毛布のようにそっと抱きしめた。
糸がぷっつりと切れたように、彼女は銃を手から滑らせ、そのまま太宰へもたれ掛かるようにして倒れた。
解放からか、意識を飛ばした彼女を抱きしめたまま、太宰はビルの淵から離れる。
弾を抜いておいて正解だったと、自分の考えを肯定した。
これでもう、彼女がこの場からいなくなることは許されない。
ふぅ、と太宰は安心したようなため息を漏らした。
先程まで銃が当てられていたこめかみに、口付けをすると、唇を彼女の耳元へ移動して囁いた。
「君の生きる価値は、私の元にある」
もうすぐ夜明けが来る。
彼女に温かな日の光が当たるまで、もう少しこうしていよう、と太宰は思った。
─END─