第3章 イノセント/太宰治
すーっと大きく深呼吸をしてみても、肺に取り込まれた気がしない薄い空気。
風はごうごうとやかましく吹いているのに、上手く酸素が入らない。
諦めて、随分と近くなったように思える星空を眺める。足元に広がる明かりのせいか、一等星くらいしか見えない。
あぁ、あれはなんて名前の星だっけな…「ア」がついたような、と僅かな記憶を絞るように考えるも、結局分からず仕舞いだった。
ポケットから白い錠剤を取り出す。ぷちんぷちんと慣れた仕草で容器から出し、口の奥のほうへ放った。
反対側のポケットからは、赤ワインを入れたスキットルを出すと、蓋を開けて一気に流し込んだ。
落ち着く苦みと、程よいアルコールのおかげで喉からお腹にかけて熱くなる。
時刻は午前3時。
真下に見えるのは、明るい割に人通りが少ない所謂路地裏。
もちろん、人一人、犬猫一匹歩いていない。
満足そうな笑みを浮かべると、投げ出していた足を一旦折って、ビルの淵に立った。
「この街は、君とは違って永遠に眠りにつくことはない」
背後から声が聞こえた。その声と口調で誰がここに来たのかはわかったが、わかったところで彼と面と向かって話す気にはなれなかった。
「あはは、さすが太宰さんは上手いこと言うなあ」
強い風のせいで声が乾いてしまう。
もう一口、と思ってスキットルを傾けたが、一滴しかワインは落ちてこなかった。
なーんだ、とため息をついてスキットルを後ろへ放る。
「どうせ夜景を見るんだったら、上等なレストランでフレンチを嗜みながら、君とワインで乾杯したいところなんだけどね」
ふぅん…と魅月は夜空を仰ぐと、呟くように聞く。
「ワインの銘柄は?」
「じゃあ、カベルネ・ソーヴィニヨンで」
「残念、あたしはシラー派」
「君もほんと個性的だね、魅月」
「それから、太宰さんとじゃなく、そうだなあ、中也君とがいいかな。フレンチ。彼、そういうのきっちりしてそうだしさ」
太宰は肩を竦めて、あのチビに負けるのは納得いかないなあと口を尖らせた。
銜えたモア・メンソールから、ジリ…と灼ける音が聞こえる。
「ところで、さ。太宰さん」
白い指でそれを摘むと、慣れた仕草で灰をこぼした。
「あたしに、何か用事でも?」