【BANANAFISH】Lullaby【アッシュ】
第9章 ふたつの心
アッシュの青白い頬に、一筋の涙がつたう。
「いかないで・・・・・・母さん・・・」
今度はハッキリと聞き取れた。
わたしは、酒屋の倉庫でアッシュが話していたことを思い出す。
まだ幼い頃に、アッシュを置いて家を出て行ったというお母さん。
きっと、置いて行かれた時のことを思い出しているんだ。
お父さんも家には寄り付かなかったと言っていた。
小さかったアッシュの心は深く傷付いて、夢の中で再び辛い記憶を繰り返し見ているんだ。
まるで自分のことのように、心が傷んだ。
心臓を、ぎゅっと掴まれている気がした。
触れることが出来ないなら、せめて・・・
子守唄なんて歌ったことはないけれど、わたしに出来ることはこれくらいしか無いから・・・
わたしはひとつしか知らない歌を、小さく、小さく・・・ピアニッシモで歌った。
歌い続けていると、アッシュの悲痛な声がだんだんと小さくなり、そしてとうとう止んだ。
それが歌のせいかどうかはわからなかったけれど、今だに目覚めることなく、時折涙を流し続けていた。
アッシュ、どうか泣かないで。
自分ではどうしようも出来ないことを、昼間は必死に思い出さないようにしていることを、夢の中で否応なしに見せられたら、きっとものすごく辛いはず。
アッシュは優しくて強いけれど、幼かったアッシュの心はきっとズタズタに傷付いて、その気持ちを今でも忘れられずにいる。
気付けば自分の頬にも涙が伝っていた。
後から後から溢れて、途切れないように歌うのがやっとだった。
この歌が意味のあるものかどうかなんて、もうどうでもよかった。
・・・アッシュのお母さん。
どうして、アッシュを置いて行ってしまったのですか?
お父さん、どうしてアッシュがさみしいときに傍に居てくれなかったのですか?
わたしにはどんな事情があったかは分かりません。
でもなぜ?
どうして?
誰に投げるでもない、無意味な問いばかりがわたしの頭を満たしていた。
そしてそれはいつしか、自分自身の問いへと変わっていった。
テレビドラマの中では当たり前のように親から子へと囁かれる台詞。
“I love you.”
わたしは、一度でも言われたことがあるんだろうか。
愛が何かなんて知らないし、自分のことなんてどうでもいいはずなのに、今は何故かそう考えずにはいられなかった。