第1章 その一言を言わなかった
『助けて』
私は、いつもその一言が言えなかった。
いや、言わなかった。
母親から暴力を受けた時も、父がいない間に連れてきた新しい男に髪を切られた時も。
兄さんはいつも傍に居てくれたけど、私を庇おうものなら彼にも被害が及んだだろう。きっと兄さんはそれが嫌だから、殴られる私を悲しい目で見ていたんだ。
それで良かった。だから、私は『助けて』なんて言わなかった。
痛くて辛くて悲しくて、布団を被ってただ静かに涙を流すのみだった。
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私は中学2年生、兄は高校1年生の夏に、両親が離婚した。
ヒーローとして働いている父は、私と兄さんに、自分に付いてくるようにと言ってくれた。
新しい家での生活は、とても素敵だった。
母親から暴力を受けることもなければ、知らない男に髪を切られることもない。3人で楽しく談笑する日々。
ある日の晩、3人で食卓を囲っていると、父が箸を止めた。続いて兄もそうした。父は私の目を見て、口を開く。
「すまなかったね」
何のことか分からずに頭を悩ませていると、兄も続けてこう言った。
「舞依……助けてやれずにごめんな。 こんな兄さんじゃ、ヒーローになんかなれないよな……」
「え……」
私が吐息だけでそう言うと、父が眉根を寄せて兄に詰め寄る。
「それじゃあ、娘を助けられずにヒーローをしている私はなんなんだ……」
「……ふふ、」
その光景に素直な笑いが出てしまっていた。
気にしなくて良いという旨を伝えると、2人は困ったように笑ってくれた。