第6章 【04-前編】零時の鐘が鳴るまで
氷雨の視線は相変わらず書類に向けられており、その小さな手は忙しなく動き続けている。
「王子ちょー暇ー。ゲームー」
「ごめん、終わったらねー」
「それ終わったら新しい仕事渡されんだろ」
「うっ」
痛いところをつかれて氷雨は困ったように眉尻を下げた。その可能性は確かに否定しきれないどころか、かなり有力である。しかし手は止めない。
ベルフェゴールは「やっぱりか」と呟くと、牛乳パックから直接中身を飲んでいた。氷雨が「零さないでね」と釘を刺せば「それもいいね」と言って笑った。このときの彼が言った「いいね」は、氷雨が困るだろうからいいねの略である。
「つーかさあ、おまえマジで過労死する気?ここイタリアだぜ?」
「あはは、新聞で取り上げてくれるかな」
「それはない」
「だよねー」
氷雨は声で、表情で、笑っているものの、余程余裕がないのかベルフェゴールも演技だろうと見抜けるくらいだった。つまり笑っていられない状況であるらしい。やっぱり氷雨の手は動き続けている。
ベルフェゴールはまるで別の生き物のように動くそれを見ながら、頬杖をついた。
「それ、いつまで」
「あー…10時までに提出」
「ギリギリじゃん」
「うん、ちょーギリギリ」
口調は軽いが目が笑っていない氷雨である。確かに彼女は言った。任務中に死ぬ覚悟はしておきます、と。しかし、こんなあからさまな嫌がらせをされるとは流石に思っていなかった。あのとき啖呵を切った自分に一言言えるとしたら「ちょっと落ち着け」と言ってやりたい。ほんと死にそう。
ベルフェゴールが黙ってしまったので、再び静寂が訪れる。喋るとやっぱり気が散るので氷雨は自分から話題を振ろうとは思えなかった。
10分ほど時間が経ったところで、氷雨は盛大なため息を聞く。それは目の前にいるベルフェゴールが珍しくこぼしたものだった。彼女が一瞬手を止めると、彼はおもむろに手を伸ばして、氷雨の右側に積まれている書類の3分の1を手に取る。彼女は完全に手を止めて目を見開いた。