第9章 思わぬ誘いと憧れのヒト
「……げ、んじつ……なの、かな?」
「何がだよ?」
「ひっ?!」
憧れの背中を見送った、逆の方からの思わぬ声に、過剰に反応して。
ドクドクと、血液が流れる音が、全身を駆け巡る。
私は、ギギギ。という機械音がしそうなくらい、不自然な動きをして、後ろを振り返った。
声を掛けて来た主は、眉間にシワを寄せていらっしゃる、“暴君”で。
「な、な、何がっ?!」
はぁ。と、溜息を吐きながら、ジャンが私に近付く。
「どもり過ぎだっつーの。噛まれでもしたのか?」
「ッ!」
そう言って、サラリ。と私の頬を撫でる。
何も、噛まれてはいない、けど。
ジャンの暖かい体温に私は息を飲んだ。
……リヴァイ兵長が見えなくなっていて、良かった。
内心冷や汗をかきながら、ジャンを押し退く。
「だ、大丈夫!噛まれるのには慣れてるから!」
「は?んな事に慣れんなよ。つーか、マジで噛まれたのか?」
「ち、違うけど、ホント、気にしないで!」
ジャンは訝しげな顔をしていて、納得はしてないようだけど、自分の愛馬の方に歩いて行った。
……とは言っても、目と鼻の先だけど。
ホッとしながら、私はリヴァイ兵長に話し掛けられる前にやろうとしていた、馬小屋の整理を始める。
……ジャンにだけは、知られたくない。
だって、ジャンに知られてしまったら最後、また新しい弱味を提供してしまうことになるだろう。
フと、ジャンの意地悪な、悪魔の微笑みが浮かんだ。
ぶんぶんと頭を振って、それを必死に追いやる。
リヴァイ兵長が“憧れのヒト”だと知られただけでも、大惨事だったのに……
これ以上弱味を握られたら、それこそ本当に本当の下僕みたいに虐め抜かれるんじゃないか、とさえ脳裏をよぎる。
……恐ろしい。
私の頭の中に、“ジャン=悪魔”と言う方程式が出来上がっているようだ。
リヴァイ兵長のお誘いに浮かれている場合ではない。
まずは、敵……
つまり、ジャンにこの素敵なお誘いがバレないように、全力を注がねば。
妙な気合いを入れて、私は兵団服の腕を捲った。