第26章 (日)焼け石と水
「今日も寒いなぁ」
低めのヒールを鳴らして歩きながら、私は呟いた。
ひらいた唇から流れていく白い息。その濃度を見て、ああこれは本格的に寒いなと確信して、空気に溶けていく様子を目で追う。
その先には厚手のウールコートを着た私の祖国、本田菊がいた。
「なんでこんなに寒いんだろ。ねぇ秋津」
本田菊、と呼ばれるのは彼は好きではなくて、私はいつも秋津と呼んでいる。
日本の美称からとったものだ。
「冬なんですから当たり前です」
素っ気なく彼は言った。
「今年初めて冬を体感したわけでもあるまいに、毎年同じ事を言いますよね」
「寒いものは寒いんだもん。日本が常夏だったらよかったのに。それか常春」
「もしそうだったら、今の私はありませんよ。春夏秋冬季節ある日本だからこそ私が在るのですから」
私の軽い愚痴に律儀に答えてくれる秋津は、特に寒がる様子もなくゆったりとした足取りで私の隣を歩いている。
流石私の祖国というべきか、彼は日本家屋を背景にした着物姿がとんでもなく似合った。いい雰囲気の家を通り過ぎるたびにちらちらと様子を伺っているのを、秋津は気付いているだろうか。
「…でもこう寒いと夏が恋しい」
「そうですね」
子をあやすように言う声はどこか艶っぽくて甘くて、もっと聴きたくなる。息を吸う音も、吐く音も、その薄い唇から漏れる音は全て聴きたくなってしまう。
冷たい風に黒髪がさらわれて、秋津は少し目を細めた。同時に、寒さで僅かに色付いた柔らかな隙間から、は、と短く息を吐いて。
「………」
ああ、やだ、私。秋津の唇から目が離せなかった。薄めで形の良いそれが僅かに開いた始終の流れを、無意識に脳内に取り込んでしまっている。
何だかそれだけで自分がいやらしい人のように感じて、そっぽを向いて俯いた。
その横顔を秋津が眺めていたのにも気付かず。