第1章 幸いなことに、今宵は月夜で
俺はたった今、目の前で俺の為だけに生きるのだと、笑うのだと言った彼女に。
その俺にだけ向けた笑顔、俺の名を呼ぶ吐息、俺を射る星を宿した薔薇色の瞳に。
その爪先から髪の毛から血管から細胞に至るまでの、彼女の全てに。
雪代 とわという一人の人間に、再び恋をした。
彼女に恋をしながらも、更に深く彼女への恋に落ちた。
何故かと言えば、彼女は確かにその言葉通り、俺を"愛してる"と言うと同時にその生を俺に笑顔で差し出したのだ。
そうして彼女の尊いたった一つの生と引き換えに、俺の心を奪ったのだ。
「ねえ、薬研?聞いてる?」
未だ身動きが上手く出来ない俺を幾分不機嫌さを混在させた声が呼んだ。
その声に促され、緩々とした動作でどうにか一つ息を吸い込み、たっぷりと時間をかけて瞳を瞬かせれば。
少し心配そうに眉を顰め覗き込む俺の美しい"生きる理由"。
あゝ、彼女の呼吸する世界は、彼女の生きる世界は、彼女の存在する世界は。
喩えようもないほど美しく清澄に、俺の目の前に広がった。
「大将…」
「二人の時にその呼び方はなんかイヤだわ」
「だって大将は大将だろ?」
「ねえ、二人きりの時はとわって呼んで?これ主命!」
やはりやや不機嫌さを感じさせる声が俺の一線を越えさせる。
「とわ…?」
「うん、薬研」
恐る恐る、壊れ物の硝子細工に触れるようにその名を呼べば。
先程までの不機嫌さなど無かったように、至極当たり前のように優しい声が返ってきて。
「とわ…、とわ…、とわっ…!」
嬉しくて、苦しくて、胸が詰まって。
一度タガが外れてしまえば、後は想いだけが奔流のように溢れ出して歯止めが効かなくなった。
何度もその名を呼びながら、現実を確かめるようにとわの体を強く抱きしめた。
彼女はそんな俺をあやすように背中にその小さな手を回し、そっと抱きしめ返してくれた。