第1章 幸いなことに、今宵は月夜で
大将はこっくりと頷いてみせると今まで浮かべていた笑みをふっと遠ざけ、やけに真面目な表情になった。
場の雰囲気を一変させる程のその神妙さに、俺の表情も一瞬張り詰めたものになる。
そして彼女は丁寧にその緊張感を持続させながら、降り積もりかけた沈黙を、柔らかな声で払いのけた。
「私、薬研を特別に想ってるの」
「は?…特別…?」
一体何が特別なのか。突然過ぎる大将の言葉に首を傾げる。
「そう、特別。つまり薬研を特別に、どうしようもなく愛してるの」
「……え?」
まったく予想外で場違いな彼女の台詞に、俺の口から出たのはそんなまるで気の利かない言葉の断片。
でも本当に俺にしてみれば耳を疑うような台詞だった。
確かに彼女はこんな風に俺に抱きついてきたり、やや過剰とも思えるスキンシップを求めてくるけれど。
それは決して俺に限った事ではないのだ。
彼女はその天性の爛漫さでもって、あの大倶利伽羅にだって飛びつくし、三日月の膝で眠りこけたりもする。
初の池田屋潜入戦では、ぼろぼろになって帰って来た俺達に、審神者部屋から裸足で飛び出し、大粒の涙を惜しげもなく零しながら一人一人をきつく抱きしめた事もあった。
そんな彼女の口から例によって人の心中やら気構えなんてものを無視した、まさに予告なし予兆なし垣根なしの告白の台詞が飛び出してきたのだ。
しかも"好き"も"大好き"も一足飛びに"愛してる"。
そして彼女は突然の事態に瞬きすら忘れて呆然としている俺を置き去りに。
あの誰をも屈服させてしまうようなソプラノで声高らかに宣言した。
「だから私はいつだって薬研の為にだけ、生きて笑うの」
そう言った彼女の、俺に向けるあまりにも無条件な微笑みと言葉に。
俺は言葉も思考も現実も理想も、見失った。
機能しているのはどうしようもない甘い痛みに捕らわれた心臓だけ。
「薬研…」
トクトクと鼓動と痛みを生み続ける俺の心臓を、彼女の声が包む。
返事をしようにも声が出せない。
想いと体が上手く連結できない。
「ねえ、薬研。あなたは?」
思考と体のバランスを失った俺の頬を、細く整った指先が触れ。
長い睫毛の瞬きに合わせて、春宵色の髪が微かに揺れる。
そして揺らぐことのない星を湛える薔薇色の瞳が、ただ真摯なほど正確に俺を見つめた。