爆乳政治!! 美少女グラビアイドル総理の瀬戸内海戦記☆西海篇
第7章 山口 最期の日
一方、アラビア帝国に亡命していた宇喜多清真は、出羽(山形)の清水賢一郎らによる農民一揆の混乱に乗じ、マラッカ(マレーシア)経由で磐見(いわみ)浜田(島根)に密航し、神戸を拠点に山陽地方のイスラム教化を目指した。同じ頃、島根半島・出雲平野の平田を統治する出雲尊久は、神話の継承者「出雲介」を自任して山陰地方の征服を試み、旧皇族の末裔と伝わる近衛秀國・近衛和泉は近畿地方を、日共軍(日本人民解放軍)の星川初(ほしかわ うい)大尉は埼玉・群馬を、隠れキリシタン十三宮命(とさみやのみこと)は伊豆半島(静岡)を制圧した。その後、清水・十三宮は日本帝国への所属を受け入れたが、それ以外の指導者は、「軍閥」と呼ばれる独立国家的な武装勢力を「建国」して、各地を占領し続けた。
アメリカ連邦と中華ソビエト共和国(中共)は、『光復停戦協定』(東亜保全条約)と題する条約を締結し、東アジア取り分け日本列島の政治的現状維持…具体的には、それぞれの軍閥を国家に準ずる「交戦団体」として承認し、日本での内戦には戦時国際法を適用する事などを合意した。このような光復停戦協定が結ばれた結果、「軍閥割拠」による日本国家の分断・分裂状態が確定した。かつての萩藩・山口県である周防長門(防長・長周)は、日本帝国(九州)と山陽軍閥(宇喜多)の緩衝地帯として、困難な舵取りを迫られる事になる。
近衛秀国率いる畿内軍閥が、中國地方への遠征を開始。これに対して宇喜多清真は、出雲介尊久の山陰軍閥と福原同盟を締結すると共に、日本帝国東京政府(国府)や星川軍閥などとも外交を結び、徹底抗戦を試みた。畿内軍は因幡(鳥取)へと侵攻し、光復5年に伯耆(ほうき)夜見ヶ浜(境港)で決戦に臨み、近衛秀国・三好秀俊と出雲尊久・山路兵介らが激闘した。この防衛線で出雲軍は迎撃に成功するが、その後、出雲介尊久が玉造温泉(松江)で謎の急死に遭ってしまう。子の孝久が「出雲介」を継承し、祖父(尊久の父)盛久が後見したが、往時の力はなかった。山路兵介は、宇山真綾ら難民を救出し鳥取管区から撤退。