第6章 ~恋と恋の、あいだ~(松川 一静)
『来ちゃダメって言ったよね?』
『夜の街を出歩くな、とは言われたけど、
ここ、夜の街じゃないから。』
『用もないのに…』
『用があるから、来た。』
『何の用?』
ポケットから、小さな紙を取り出す。
『これ。』
『なに?』
『ゆうべのタクシーの領収書。』
『そんなの…』
『母さんはいっつも、
タクシー乗ると領収、とるよ?
経費になるんだろ?』
ドアから半分だけ見える顔。
不審がってた表情に
少しだけ、笑顔が浮かぶ。
『…いっちゃん、しっかりしてる。』
それを受け取ろうと、
ドアの隙間から伸びてくる指。
これ、俺の唯一の切り札。
渡してしまったら、もう、
用がなくなってしまうから。
すぐに渡すわけにはいかない。
『綾ちゃん、お願いがある。
あのさ、トイレ、貸して。』
『え?』
『さっきコーラ、イッキしたから
今、すっげー、尿意!』
『…それ、家にあがろうっていう
ありふれた口実じゃ…』
『違う!ホントに!マジで、危険水位!』
カチャ。
…綾ちゃんの家のドア、じゃなく、
隣の玄関ドアが開く。
出かけるらしい大学生みたいな男が、
ドアの隙間に必死で話しかける俺に
声をかけてきた。
『大丈夫ですか?』
…俺、もしかして不審者に見えてる?
『だ、大丈夫です、ちょっとした…』
ええと、
ちょっとした…痴話ゲンカ?
いや、ケンカはしてないか。
ええとええと、
押し掛けた、というか、
話し合い、というか、
…え?あれ?
俺、もしかして今、
"ストーカー"的な立場なわけ?
『俺、今、ヤバいヤツみたいに見えてます?』
ぷっ。
…笑い声が聞こえてきて、
カチャ。
ドアが開いた。
これは、綾ちゃんちの、ドア。
『トイレ、使って。』
慌てて駆け込む俺。
後ろで、心配そうに見てた大学生に
綾ちゃんが
ニッコリ笑って声をかけてる。
『騒がしくてごめんなさいね、
大丈夫、知り合いの息子さんが急に来て
びっくりしちゃっただけなの。
…今からお友だちと飲み会?
気を付けてね、いってらっしゃい。』
トイレにむかって放物線を飛ばしながら
ジリ、と、胸が焦げるのを感じる。
"気を付けてね、いってらっしゃい"
…ちょっと前まで、
毎日、俺にくれてた言葉じゃん。
他の男に、気軽に使うなよ…