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第11章 斎児ーいわいこー



痛々しい。

白い靄が頼りなく揺れながら近づいて来る。
不意に節さんが私にぎゅっとしがみついた。

「お願いお願いお願い」

経ではなかった。譫言のようにひとつ言を繰り返し呟いている。しがみついた手から伝わる震えがひどい。

節さんに声をかけたものか、靄に説教を食らわしたものかー大きな口を叩いているが、勿論私だって怖いー思考が行きつ戻りつする。その間にも靄は次第に近づいて来る。近づくにつれて確信を得たように揺れがなくなり、形がはっきりして来た。
何だ、これは。知り人か?誰だろう。私が入寺してから亡くなった僧都と言えば、先代の和尚と私の世話役を務めてくれた方くらいしか思いつかない。入寺してすぐ亡くなられた先代の和尚は馴染みが薄い。秋光さんか?

今思えば、どうして秋光さんが自分に出たと思ったのだろう。自分が秋光さんの物思いの種になることなどないのに。
秋光さんは私を可愛がってはくれたが、それは秋光さんに表側のごく一部の話、あの人はいつも内側の深いところにある重たいものに心を囚われて、この世からコトンとずれた場所で皆の営みを他人事のように眺めているようなところがあった。亡くなった後の彼を動かすのは、勿論その内側の深みに燻っていた重たい何かに決まっている。
それがぽっと出の歳離れた弟弟子である訳がない。
けれどこの時の私は何の疑いもなく秋光さんが自分に何か伝えに出たのだと思い当たった気でいた。だから思わず声をかけた。

「何を迷い出るのです。ご精進下さいませ」

万一相手が先代の和尚であれば引っ叩かれかねないことをよく口にしたものだと思う。いや、相手が秋光さんであっても引っ叩かれそうなものだ。兄弟子相手に言うべきことでもない。
でもそのとき、靄が笑ったような気がした。草臥れた寛容の笑いだ。
それで確信した。

「秋光さん」

呼びかけたらばしがみついていた小さな手の感触が失せた。私が振り向くより先にもう目前まで迫っていた靄が大きく揺らぐ。
ほんの一時訝る気が差したが、すぐ足元に倒れ込んだ節さんに身を屈めた。青ざめた顔を覗き込めば、強い目が大きく見開かれている。

「…お願い…もう止めて」

呟いた節さんは瞼を閉じた。目の下に黒い隈が浮かんでいる。これはいけないと慌てて立ち上がった体が冷たい靄を突き抜けて思わず声が出た。

「ひ…」

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