第1章 もう一つの物語<武田信玄>
二本の刀がぶつかり合って、金属音が響く。
家康の強い瞳が、俺を射抜くように見ている。
少なくとも、好きな女が敵の姫だと知って逃げ出すような腑抜けではないようだな。
決着がつかずに下ろされた刀。
最後の通告をしても、家康から離れない桜を鋭くにらんで、その刀を振り上げた。
斬るつもりのない太刀は、家康によって弾かれ、二人は俺に背を向けて馬へ走っていく。
―――桜。
お前が幸せなら、俺はそれでいい。
「元気でな」
それだけ声をかければ、桜がはっとしたようにこちらを見たのが分かった。
馬が走り出し、すぐに姿が小さくなって、消えた。
ふらりと体が傾いで、そばにあった木にもたれ掛かり、ずるずると片膝を立てて座り込んだ。
斬るつもりが無かったことは、きっと家康にもばれているだろう。
「桜…」
無意識に愛した女の名前を呼んでいた。
俺と添い遂げるより、先のある家康と共にいた方がいい。
そんなことは分かりきっているが。
「っ……」
立てていた膝に頭を預けて。
しばらく、こうしていよう。
この胸の痛みが、ましになるまで。
終