第16章 右隣
風呂から上がった牡蠣殻からは、松明花の香りがした。
鬼鮫は驚いた。
「煙草じゃない匂いをさせたりもするんですねえ・・・・」
「はあ?匂いですか?」
椅子に腰掛け、濡れたまま早キッチリと結い上げられた髪を光らせながら、牡蠣殻は眉間にシワを寄せた。
「干柿さんは鼻がいいんですかね?折に触れて香りの話をなさる」
「さっきまで血と煙草の匂いをさせてましたからねえ。鼻にもつきますよ」
「・・・・また微妙な言い回しを・・・そんな臭いですかね?」
自分の匂いをクンクン嗅いで、牡蠣殻は首を捻る。
「松明花には鎮静作用があるんです。お気に召さないなら落としてきますが」
言いながら溜め息を吐く。
「いくら臭くなってもいいから一服したいですよ、ホントに」
「ありませんよ、煙草なんか」
「わかってますよ」
浴衣の下に着込んだ見慣れない栗茶の徳利首を引っ張って、牡蠣殻は不貞腐れた顔をした。
「言ってみただけです。チッ」
「・・・チッてあなたねえ・・・煙草が吸えないくらいで舌打ちしますか、普通」
「煙草あっての私なのです」
「・・・また馬鹿な事を・・・」
鬼鮫は呆れ返って牡蠣殻を眺めた。牡蠣殻は目付きの悪い顔でそれを見返す。
「何ですか?何か文句でも?」
「文句なら幾らでもありますがね。今は止めておきますよ。さっさと食べて寝なさい」
卓の上に粥と瓜の汁が載っている。
「・・・・う」
腹が減っている筈の牡蠣殻は僅かに顔をしかめて半歩退いた。
「食べなさい」
白湯を突き出して鬼鮫が凄んだ。
「食べないでいるとどんどん食べたくなくなりますよ。食べ始めれば食べられます。座りなさい」
「はい」
「まず白湯」
「はい」
「箸を持って」
「頂きます」
「よろしい」
大人しく箸で粥を掬い始めた牡蠣殻を、鬼鮫は卓に片肘をついての頬杖で見守った。
「・・・干柿さんは食べないんですか」
「私はとうに夕餉をすませてます」
「じゃあどっか行っててくれませんかねえ・・・」
「行きません」
「隣でじっと見られてたら気になって味がしない・・・」
「お気になさらず、ゆっくりどうぞ」
「・・・・ご丁寧にどうも」
「どういたしまして」
「・・・・・・・」
牡蠣殻は鬼鮫を横目に粥の椀を持ち上げ、ズッと一息に平らげた。