第1章 離反ものがたり
「へぇ…、手がねぇ」
「手が滑るなんてどうしたんでしょう。これじゃ困りますね」
ねぇ、凌統殿?と笑う陸遜の眼は暗に「これ以上刹那に近付くな」と言っている。
当の本人はと言えば、俺に抱き締められたまま訳がわからないとばかりにおろおろと俺と陸遜を交互に見ていて。
ここでこれ以上、陸遜の逆鱗に触れるのは得策ではないと踏んで、刹那に回していた腕を離した。
「刹那殿、そろそろ行かないと、軍議に遅れます」
「え、あぁ、もうそんな時間か…」
腕の中からするりと抜け出すと、さっきの余韻など残さずに、もう陸遜と次の戦の話を始める。
そうだな、あんたは俺の好きな女で、戦人で、国主なんだよな。
民と臣下を第一に考える、最高の国主だ。
そして、最高の女だ。
「刹那、俺が居なくて寂しかったかい?」
俺と甘寧を残したまま、回廊へと足を動かし始めた刹那の背中へと投げかけた。
わかってるけど、聞いてやる。
あんたの口から、聞きたい。
その薄い、桃色のくちびるから。
ついでに、陸遜への牽制をちょいっとね。
動きを止めこちらを一瞥した刹那は、照れたようにくちびるを尖らせた後、口を開いた。
「二度も言わすな、ばか…!」
照れ隠しに吐き出された言葉。
その悪態に、俺は最高に愛を感じた。
あんな『ばか』俺は今まで聞いたことない。
卑下する意味でなく、蔑む意味でもなく、親しみと愛の籠ったことば。
「はは、もう聞きませんよ」
「それから…!おまえらふたりとも兵卒からやり直しだ!」
「は??」と間抜けな声を出して唖然とした甘寧と俺を残し、刹那は早足で陸遜と回廊を行った。
俺はと言えば、何とも素直じゃない君主さまに笑みを零し、高く澄んだ空を見上げた。