第1章 前夜
築30年は経ってあるだろうアパートの一室。
古めかしい畳の匂いと強い酒の匂いが充満する部屋の中、一人の女性が枯れた声でヒステリックに笑っている。
その隣の部屋では、布団から身を乗り出し、その様子を襖の障子から覗きこんでいる少女、そして、部屋の端でただただ茫然と壁を眺め、小さく座っている少女、2人がいた。
少女の1人、隣の部屋を覗きこんでいた、神無が少し口を開いて、聞こえるか聞こえないか分からないような声で呟く。
「ねえ…葉月、お母さん、おかしくなっちゃったのかな…?」
神無がそう訪ねるともう1人の少女、葉月が目線を合わせた。少し間をおいてから、少し掠れ、冷めたような声で言い放つ。
「…さあ、私にもよく分からない」
その発せられた声に神無は少し驚いた。
それもそのはず、葉月は普段から殆ど皆無と言っていいほど言葉を発しない。
神無にとって実に1週間ぶりに聞いた声だった。
生活を共にしている神無と葉月だったが神無自身葉月のことを全て理解している訳ではなかった。
物心ついたときから葉月は外に足を踏み出していない。このアパートの隅で朝、昼、夜を淡々と過ごしてきた。朝の爽やかな太陽も、昼の刺すような太陽も、夜に煌めく星空も窓にかかってあるカーテンにより、あまり見たことがなかった。
世間では口を揃えてこれを引きこもりと言うのだろう。だが、神無の認識は実際は違った。
引きこもりではない、閉じ込められているのだと。
葉月の意思は関係なく、あの、奇妙な笑い声を発している母親に。
神無は再び布団に潜り込んだ。
埃を吸い込んだその布団に身を委ね、徐々に温もっていく体温を感じ、瞼を閉じる。
隣の部屋で風を切る音が聞こえ、それと同時にガラスが割れる音がする。
子供の頃から聞き慣れたこの音は、嫌いでは無かった。
神無の意識が吸い込まれて行く。明日は何もないようにと心のどこかで願いながら。