第10章 狂い雨
百合——。私の前任の護衛官であり、私にとっては、本当のお母さんのような存在だった人。
あの頃——私を無条件に甘やかし、愛してくれた、世界で一番大好きな人。……だけど、彼女はもう、この世界には……いない。
彼女を失ったときの、あの身が焦げるような絶望と悲しみを、思い出すと、悲しくなってしまうから……いつしか自分自身の記憶に深く蓋をしてしまっていた。
彼女のことを思い出してし、溢れてくる悲しみと、急に襲ってきた身体の重さに、私は小さく息を呑んで立ち尽くした。
『っ……。……そう、ですね……』
震えそうになる声を必死に抑え込みながら、私は消え入りそうな声で、やっとそれだけを返した。そんな私の様子を見て、夏油さんは本当に申し訳なさそうに、そっと眉を下げて私の肩を優しく包み込んだ。
「あぁ、ごめん。辛いことを思い出させてしまったね」
『いえ、大丈夫ですよ……っ…』
私は無理に笑顔を作ろうとしたけれど、百合さんのことを思うと、どうしても視界が少しだけ潤んでしまう。夏油さんは私の頭をもう一度、今度は、あやし、慰めるように何度もそっと撫でてくれた。
「本当にすまないね。今日はもう、部屋に戻ってゆっくり休むといい。……どうやら、体調もすぐれないようだからね」
『……ありがとうございます』
言われてみれば、体調の悪さが、先ほどよりも確実に増してきている。身体が芯から冷えていくようなだるさに襲われ、私は小さく息を吐いた。
「では、また会おう。雫」
『はい! また…』
夏油さんはそう言って、最後に優しく微笑むと、夕暮れの闇の中へとすうっと静かに消えていってしまった。
一人残された裏山で、私は不思議な余韻に包まれながらも、大好きな前任の護衛官・百合の面影と、それを共有できる夏油さんのぬくもりを胸に、重い足取りで高専の寮へと戻り始めた。
——夏油さんが、五条先生とただの「喧嘩」をしているのではなく、高専を追われた『最悪の呪詛師』であり、百合さんの死にも呪術界の深い闇が絡んでいるという恐ろしい真実を、この時の私は、まだ何一つ知らなかった。