第5章 初めてのハグ
いつもなら、ここで気持ちを切り替えて目的地へ向かうはずだった。
けれど今日は、足取りがなかなか前に進まなかった。
数歩歩いたところで、脹相はふと立ち止まる。
腕の中に残ったあなたの体温。
背中に触れた手の感触。
耳元で聞こえた声。
そして、抱きしめたあとに見たあなたの顔。
頬を赤くして、嬉しそうに自分を見上げていた表情が、何度も脳裏に浮かぶ。
あの顔は、可愛かった。
思い出すたびに、胸の奥がじんわりと熱くなる。
肩を寄せることも、抱き上げることも。
けれど今朝の抱擁は、それらとは違った。
あなたが自分を恋人として求めてくれた。
そして自分も、あなたを恋人として抱きしめた。
そのあとに見た、照れたような、それでも嬉しそうな顔。
あの表情を、また見たいと思った。
「……」
脹相は小さく息を吐いた。
まだ出かけたばかりだというのに、もう帰りたくなっていた。
早く帰って、もう一度あなたを抱きしめたい。
今度は、戸惑うことなく。
あなたが腕を広げてくれるのを待つのではなく、自分から抱きしめたい。
そして、またあの可愛い顔を見たい。
そう思うと、外にいる時間がいつもより長く感じられた。
「……早く帰りたい」
誰に聞かせるでもなく、脹相は小さく呟く。
そして、名残惜しそうに一度だけ家のほうを振り返った。
その日の夕方。
帰ってきた脹相は、玄関に入るなり私を見る。
「ただいま」
「おかえり」
「……」
「どうしたの?」
脹相は少しだけ考えてから、両腕を広げた。
「……ただいまのも、あるのか?」
「……ふふっ」
「違うのか?」
「ううん」
私は笑いながら、その腕の中に飛び込んだ。
「ただいまのも、しよう」
今度は、朝より少しだけ自然に脹相の腕が私を包む。
以前から感じていた安心感はある。
けれど、それだけではない。
恋人として抱きしめられているのだと思うと、胸の奥がくすぐったくなった。
脹相は私を抱きしめながら、朝見た顔を思い出していた。
やはり、可愛い。
こうして腕の中にいる今も、朝とは違う表情を見せてくれる。
「……こっちのほうが、いいな」
「何が?」
「帰ってきたときに、お前がいることが分かる」
そう言って、脹相は私を抱きしめたまま離さなかった。