第1章 『音会う』
「……あの」
「何だ?」
「お名前、聞いてもいいですか?」
一瞬だけ間があった。
まるで、そこで初めて互いに名前を知らないことに気づいたような間だった。
「湯川」
「湯川……」
「湯川学だ。理工学部物理学科で准教授をしている」
「准教授?」
思わず声が裏返った。
学生じゃないとは思ったけれど、想像以上だった。
「何か問題でも?」
「い、いえ」
慌てて首を横に振る。
「私、経済学部三回生の星宮亜希です」
名前を告げる。
湯川先生は小さく頷いた。
──けれど、なんとなく。
本当になんとなくだけれど。
この人は私の名前よりも先に、私のフルートの音を覚えていたんだと思った。
「それじゃあ、星宮君」
湯川先生は踵を返す。
「あ」
思わず呼び止めた。
彼が振り返る。
「……またここで練習してもいいんですか?」
「好きにすればいい」
「研究の邪魔になりません?」
「言ったはずだ。興味のない音なら、そうだったかもしれないと」
それだけ言って、彼は校舎へ戻っていった。
白衣の背中が見えなくなるまで、私はその場に立っていた。
「…………何だったんだろ、あの人」
呟いてもう一度、フルートを構える。
息を吸った。
さっきまで十七回も繰り返していた場所から、もう一度、音を出す。
──不思議だった。
何一つ解決していない、将来だって決まっていない、このままフルートを続けてどうなるのかも分からない。
なのに────、
さっきより少しだけ、音が軽かった。