第2章 始まりの合図
いつもの朝の仕事だ。
だが、視線は何度も街道の方へ向く。
もう姿は見えない。
朝の光の中、女将はいつもの仕事に戻る。
数日、村も町もない道を歩き続けた。
東海道の山道は人の気配も薄く、夜はただ闇が広がるだけだった。
だが、不思議と体は軽い。
肩の奥に残っていた鈍痛も、脇腹を締め付けるような違和感も、背中に走る引き攣りも気が付けば全て消えていた。
「ん…治ったな」
独り言のように呟く。
足取りは自然と速くなっていた。
夕方、ようやく人の匂いが濃くなる。
街道沿いの家並みが現れ、行き交う旅人の声が耳に届いた。
斗亜は小さく息を吐く。
「今日は宿で休めるかな」
久しぶりに屋根のある場所で眠れる。
そう思った瞬間に、視界の端に看板が目に入った。
【宿屋 冴島】
墨で書かれている文字。
古びているが、丁寧に手入れされているのが分かる。
その名を見た瞬間、足が止まった。
理由は分からない。
だが、胸の奥が僅かに軋んだ。
血の匂い、冷えた空気、刀を握る手の感触が、ほんの一瞬だけ脳裏を過る。
「気のせいか…?」
斗亜はそう切り捨て、暖簾をくぐった。
宿の中は静かだった。
古い木の匂い。
床はよく磨かれている。
帳場にいた宿主は、年老いた男だった。
背は低く、白髪が目立つ。
だが背筋は伸び、どこか武家の名残を感じさせる佇まいだった。
「お一人様かい?」
「あぁ…」
「今夜は空いております」
宿主の視線が、斗亜を一瞬だけ捉える。
ほんの一瞬。
それでも、確かに止まった。
すぐに視線を逸らし、帳面に視線を落とす。
まるで、何かを誤魔化すように。
斗亜は何も言わない。
部屋へ案内される途中、帳場の奥が目に入った。
小さな仏壇があった。
その中に、一つだけ位牌がある。
名は、こちらからは見えない。
「……」
斗亜は視線を外した。
他人の過去を覗く趣味はない。
部屋は宿の奥まった場所だった。
人の気配が少なく、静かだ。
腰の下げ緒を解いて、刀を腰から外し横に置く。
しばらくして、夕餉が運ばれてきた。
宿主は飯を置いてそそくさと出て行った。
白飯。
汁物。
小鉢。
そして、湯気の立つ茶。
どれも素朴で、特別なものはない。