第43章 【第三十八話】呼べなかった名前
静養室の夜は、医務室よりも静かだった。
消灯を過ぎた部屋に、廊下の灯りが扉の隙間から細く伸びている。
ティファはベッドの上で、ぼんやりと天井を見ていた。
身体は重い。
けれど、眠気だけが遠かった。
瞼を閉じると、方舟での一瞬が蘇る。
ぼやけた視界の中、確かにこちらを見ていた翠の瞳。
――おせぇよ。
――どんだけ心配させんだよ、バカ。
泣きそうな顔で、怒っていた。
あの時、答えたかった。
ただいま、と。
心配かけてごめんなさい、と。
けれど声は出ないまま、意識はまた沈んでしまった。
リナリーは言っていた。
ラビは最後まで、自分を抱えて離さなかったのだと。
自分の傷がすべて戻っても、担架へ移すまで、絶対に手を離さなかったのだと。
胸の奥が、静かに熱を持つ。
伝えたい言葉が、喉の奥に積もっている。
ありがとう。
ごめんなさい。
約束、守ったわ。
そのどれよりも先に、呼びたい名前があった。
ティファは、そっと喉元へ指を添えた。
包帯の下で、『ニルヴァーナ』は静かに眠っている。
婦長には、喋るなと言われている。
分かっている。
それでも。
名前だけ。
一言だけなら。
ティファは、ゆっくりと息を吸った。
唇を開く。
「……ら」
掠れた息が、それだけを残して途切れた。
喉の奥に、焼けるような痛みが走る。
「……っ」
続きが、出ない。
たった二文字が、届かない。
あんなに何度も呼んできた名前なのに。
あの人はいつも、呼べば振り向いてくれたのに。
視界が、じわりと滲んだ。
涙が、こめかみを伝って枕へ落ちる。
泣くつもりなんて、なかった。
皆生きていて、自分も帰ってこられて、それで十分だと思っていたのに。
呼べなかった名前ひとつで、こんなにも胸が軋む。
ティファは、喉元の包帯の上へ、そっと手のひらを重ねた。
早く、治さなければ。
伝えたい言葉が、こんなにもあるのだから。
一番に、あの名前を。
今度こそ、最後まで。
廊下の灯りが、微かに揺れた。
ティファは目を閉じる。
声にならなかった続きを、胸の奥で何度も呼びながら。
夜は、静かに更けていった。