第1章 深夜のマンションで
冷たい床に手を突きながら、激しい動悸に必死に抑える。
誰もいないと思い込んでいた静寂の空間に、突然他人の姿が現れたのだ。
恐怖と驚きが混ざり合った声を絞り出す。
「ご、ごめんなさい……! 大声出して、誰もいないと思ってたから……」
平謝りしながら女性の様子を窺う。
しかし、彼女は怯えるに対して怒るでもなく、ただ微動だにせず立っていた。
表情は髪に隠れてよく見えない。
彼女は何も言わぬまますっと白い手を持ち上げ横のドアをを指差した。
その指先へと視線を誘導される。
そこには、いつから貼られていたのか黒い紙がはられていた。
不審に思いながら凝視するとそこには血文字のような悍ましい赤色で、殴り書きのような歪んだ文字が並んでいる。
『異変を見つけたら部屋に戻れ。何もなければエレベーターへ進め。』
「え……?」
不吉な内容には首を傾げた。
異変、部屋、エレベーター。
まるで何かのゲームか、たちの悪い悪戯のルール説明のようだ。
「あの、これって一体どういう……」
意味を問いただそうと、弾かれたように女性の方へ視線を戻す。
だが、そこにはもう、誰もいなかった。
つい数秒前まで確かに存在していたスーツ姿の女性が、足音ひとつ立てず煙のように掻き消えている。
「嘘、でしょ……」
血の気が引いていく。
先ほどのエレベーターでの怪異、そして目の前で起きた人間の消失。
先ほど打ち消したはずの恐怖が、より巨大な波となっての全身に襲いかかった。
ここは確実におかしい。
何かが狂っている。
引き返して自室に鍵をかけ、毛布にくるまりたい衝動に駆られる。
しかし、ぐう〜と情けない音を立ててる胃袋が、容赦なく現実を突きつけてきた。
背に腹は代えられない。
この限界の空腹のまま、あの狭い部屋で一晩中怯え続けるなど不可能だ。
せめて、コンビニで何か買って戻るだけでも。
は震える膝に力を込めると、黒い紙の警告を頭の隅に押し込み、再び廊下の奥のエレベーターへと向かって歩き出した。