第3章 『まだ名前にならない感情へ』
当然だ。
自分でも意味がわからない。
だって、今まで普通だった。
ハンジに触れられることなんて。
隣に座ることなんて。
顔を覗き込まれることなんて。
全部。
全部、普通だったのに。
どうして急に。
こんなに。
落ち着かないんだろう。
「……ほんとに変だよ、𓏸𓏸」
「……うるさい」
「はは、怒られた」
笑いながら、ハンジが椅子の背にもたれる。
その何気ない仕草で、シャツ越しに浮く鎖骨が見えた。
また、目がいった。
最悪だった。
「…………」
「……𓏸𓏸?」
「……ハンジってさ」
「うん?」
「前からそんな感じだったっけ」
「そんな感じ?」
「……なんか、その……」
言葉が詰まる。
“綺麗”とか。
“距離近い”とか。
“見ちゃう”とか。
言えるわけがない。
ハンジは不思議そうに首を傾げて、それから少しだけ笑った。
「私はずっと私だけど」
「……」
「𓏸𓏸が急に変になったんじゃない?」
その言葉に、どくん、と胸が鳴った。
図星みたいで、悔しい。
でも。
きっと本当にそうだった。
ハンジは何も変わっていない。
変わったのは、私だ。
今まで気にしたこともなかった仕草を、
視線を、
声を、
指を、
距離を。
急に意識してしまっている。
その事実に、自分がいちばん戸惑っていた。
「……𓏸𓏸」
「なに」
「さっきから全然目合わないね」
「……気のせい」
「ふぅん」
絶対信じてない顔だった。
なのに追及はしてこない。
ただ、楽しそうにこちらを見ている。
その視線にまた落ち着かなくなって、私はとうとう机に突っ伏した。
「……むり」
「え、なにが?」
「……なんでもない」
笑い声が降ってくる。
その声を聞きながら、
私は机に顔を埋めたまま、ひとりで勝手に混乱していた。
——気づかなければ、普通だったのに。
_________fin.